はじまるよ
朝霞駅前の多勢のパンパンガールの中で美人度No1を謳われたベリーさん。 黒人兵の彼は彼女に惜しみ無く金を与え、ベリーさんは下赤塚、 川越街道ぞいの中国人ドレスメーカーでアメリカナイズされた服をいくつも作らされていて、 同じパンパン仲間の羨望のまなざしを集めた。
そんな時 朝霞駅に降り立ったパンパン志願の娘です。 本当に身一つで中学を終えたばかりの少女はおどおどと白百合会のお姉さんに”顔を通す”のでした。 「◯◯から来ました、よろしくお願いします」
白百合会という、パンパンのグループを無視し、米兵の袖を引き売春をする娘は極めて壮烈なリンチを加えられたのです。 これは駅前の日本通運、資材置き場での白昼リンチです。学校帰りの僕たちはランドセルを背負ってみてます。
同じく広沢の池でのリンチ場合。全裸にされ、泳げるも泳げないも池につき落とされ、 溺死寸前で引き上げるという。ぼくたち小学校は足がふるへて、その場を去ることもできませんでした。 「だれにも言うんじゃねえぞ!」パンパンの声にこっくりうなずくのがいっぱいです。
白百合に入会した娘さんは上納金を納め朝霞での売春を認められ1年もすると、装いも変わります。 特にの変化は口紅をこれでもかとばかりに塗ることです。 下足は未だ下駄やサンダル、黒いズック靴です。
運よくやさしく金離れのいい米兵のオンリーになれた女は、 米国最大の通信会社シアーズのカタログから彼に註文させた”アメリカの服”で街に出る様になります。 こうなるとパンパンばかりではありません町の娘さんたちのあこがれの的となってしまうのです。
どんなもんだい、2・3年前の姿はどこにもありません。 そしてあの赤い口紅は大人しい色に変化です。 あの眞赤な口唇は何んだったのでしょうか。 あこがれの「アメリカのナイロンのストッキング」ももちろん着用です。 おっぱいが尖り過ぎですって?そうこの時ブラジャーは円錐状に巻いたはりがねに布をかぶせたものだったのですから。 そうです、今日だとマドンナ、レディー・ガガの衣装でしか見られませんかね。
混血児もあちこちで見受けられます。でもだあれも遊んでくれません。 いつも一人寂しく猫を抱き犬をつれ、お人形を手にしてます。 時々悪ガキが近づき「おいチョコ持ってこい!」等と綾をつけると 「ハイ」と言うことを聞くのでした。 「合いの子」と呼ばれた子供は男の子は譲・丈・錠が付く名前が多く、まれに利喜なんています。 女の子は理、利が付き真里・恵利・利々です。どちらも英語の名に通じてるからでしょうか。 今の男の子に夫も雄も付かず女の子に子が付かなくなった走りでしょうか。
黒人の子をおんぶする女はこの子のパパは分からないと言ふ。 名は忘れたがおでこの出たかわいい子で皆に凸坊と呼ばれていた。 お母さんも でんでんたいこ等与え凸凸とかわいがっていた。 もちろんこうして客をとります。その際子供は仲間がかわりばんこで面倒をみるのです。
二人とも合いの子。 二人ともじょうじ君。譲治と丈児ピストルのじょうじはオンリーの母さんで父は中尉さん。 刀のじょうじは「お父さんがわかんない」と母ちゃに聞かされた。 近所の子は遊んでくれないから二人はいつも仲良し。 刀のじょうじもピストルがほしいけど・・・がまんしてる。 じょうじ やるか!かもん じょうじ!
あの日の小学生の私が中のアメリカです。とにかくあこがれたのです。
オンリー嬢が美しく装っているにも”乞食パン助”と呼ばれる売春婦達もいて、 彼女等は広沢観音堂に巣くって池の水を飲料に風呂にくらしています。 この風呂桶は朝霞駅社宅の共同風呂を盗んできたものです。 この桶を運ぶに用いたのは我家のリヤカーでリヤカーはどこかに売られた後でした。
乞食パンパンにもオンリーさんにも検診が義務づけられて 駅前では我家の隣にあった朝霞病院でした。朝から夕方までパンパンの長い列で 病気がみっかると、その場でMPにトラックにほうり込まれ国立埼玉病院へ連れられたのです。 当分営業はできません。
上手に検診をやり過ごしても町中をうろつく野犬にかみつかれ病院に来るパンパンも大勢いたのです。 昼間にかみつかれたという話はあまり聞きませんでしたが夜は多かった様です。 「夜の女だからしかたあんめい」農家のおぢさんがいいました「?」
黒人兵専用のバーです。女給、もちろん客の求めで体を売ります。 一張羅の眞赤なチャイナドレスです。両脇にはお尻辺りまでのスリット。 バーには灯点し頃少女が花売りに来ます。チャイナドレスの女は黒人兵に金を2倍に言って出させます。 半分は己れの口利き代でストッキングに挟み込みました。
米兵との話がまとまると、彼女はBAR裏手にある小屋、パンパン小屋でお仕事です。 掘っ立て小屋、もしくは犬小屋とも呼んだ粗末な小屋です南栄にはいくつもありました。 中学生のお兄さん達は麦畑を匍匐前進のぞきに精を出し、その模様を得意に 小学生のぼくに等に話し聞かせるのでした。 絵は順番待ちのパンパンと米兵です。
一方でオンリーさん達は夜になって働きに出ることもなく彼の訪れを待つのです。 これはベリーさん、黒人兵はトニーさんここは我家の八畳間ですが 二人の希望で部屋全面をピンクに塗ったのですが、 父はまさかと思った自慢の床柱までペイントされまっ青でした。 トニーさんの居ない昼間ぼくはベリーさんのこの部屋にしばしば遊びに行き コーシーをのまされ、クッキーをいただきトランプをして遊びました。 彼女は私をトシ坊とよび ぼくはベリー姉ちゃんと呼びました。 時々抱きしめてくれ、それはとってもいい匂いで・・・。 「もうトニーさんが帰ってくるから、帰っといで」母の声がするまでぼくはねばりました。 宿題なんてどうでもよかったんです。いやなガキです。
ユキちゃんです、毎年雪どけとともに我家にまわってきました。
富山の薬売り。昭和26年、27年と姿をみせませんでした・・・が
28年の雪どけ春と共に大変身のユキちゃんの登場です。
彼女はオンリーさんになって若い米兵と
「おばちゃん!あたしユキと違うんよ、メリーになったんよ!」
色白のとっても別嬪さんでだれもが「あの薬売りの?」とびっくりです。
さて、そのユキちゃんのメアリー嬢と私は60年振りの再会をしたのです。
メアリー老嬢、なんたって彼女は84歳に成っていました。
そもそもは2014年の「市民が集めた朝霞の歴史展」で
この様な紙芝居をさせていただいたのがその因です。
ポスターをみて来てくれたのです。
彼女の希望により詳しい話はできませぬが、一時彼と共に米国へ渡るも破局。
以後青森三沢の米兵相手のバーに働き・・・流れ流れて
そしてあの頃のハニーの1人ベティさんともやりとりはあるとのこと
色々当時を聞かせてくれたが絵にも文にも許しは得られなかった。
「トシ坊もお爺になったね」が最後の言葉で分かれました。