ハバ ハバ

アメちやんが良く口にした言葉だ。子供たちはそれが急げ、早く、とかの意味に使われることを感じ良く口にした。
そのうちハバハバがハロー、グットバイ、サンキューと同じように、ぼくたちの言葉になってしまった。
ホームに電車が入ってくると、
ハーイ! ハバハバ ハニー!
大声でハ二ーさんを呼ぶアメちゃんは、切符を買うでもなく柵を跨ぎ、ハニーさんを抱え上げ抱っこしたまま電車に乗りこんだ。
唐草風呂敷のおじさんは、ハニーさん相手の布団屋で大宮から毎日やって来る傷痍軍人です。
我が家の貸席の布団もこのおじさんから買ったものでした。
改札口上の大小の箱はなんなのか? 分からないのです。
どなたかお分かりでしたら教えてください。S24年頃
金ちゃんの紙芝居

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ゆすり

オンリーさん親子(米兵N・T・LEASH、妻冴子・娘リサ)に白百合の幹部がからみます。もちろん“ゆすり”です。この親子は一見して豊かにくらしているのが知れるからです。親子揃いの服装なぞ贅沢の極なのです。
顔に青あざを見舞われ、何がしかを脅し取られた冴子さんは、駅前派出所巡査(小川さん)に訴え出るも、パンパン同士の喧嘩は両成敗と耳も貸してくれなかったとのことで、冴子さんは米兵の彼に訴えたところ、彼はMPにその旨を話したところ、直ちにMPは暴力を振るった白百合幹部を連行し、女は何日かをモモテハイツ内のモンキーハウスに留め置かれ、検診の結果性病と判断され、国立埼玉病院に入れられたのですが、彼女は一週間程毎日処方される高貴薬ペニシリン錠剤の内、幾粒から隠し、退院時にはその数十粒を持ち出し、娑婆に出て仲間のハニーに高値で売ったという話。
又、彼HEELさんはMPに訴えの際、冴子さんの被害は無論のこと、娘リサの目の前で母が暴力を受けた際のリサの心の傷を大きく取り上げたということでした。白百合幹部の女どんな罰が下ったかは不明。
ちなみにこの母娘の衣裳は下赤塚川越街道に並んでいた中国人ドレスメーカーに注文したものです。(代価は不明だが数十ドルには間違いない)
金ちゃんの紙芝居

市民が集めたインタビュー

「思い出語り合い・聞き取り」プロジェクト
米軍基地内で仕事をしていた、基地近くの学校で教員をしていたなど、米軍基地があった頃の朝霞の様子を知る方々に、聞き取り調査を実施しました。

egawahosonosawadayamadakanekotakanoikedaoonukiyamashitahosakahirayamatanakatanizawakokuraishizukatakahashi

ベリー嬢奇譚

ぼくん家です今の駅前ローターリーの所で、貸席をしてます。 たくさんの米兵とパンパンが出入りします。

その時ベリー嬢は16才中学を終えたばかりでトニーさんのオンリーに成ります。 彼に合うように肌を焼きますが、トニーは色白のベリーさんが大好きでした。

二人は相思相愛彼は彼女を着せ替え人形の如、彼の好みか、チャイナドレスを何着もオーダーしました。 ベリーさんは駅前通り一番の衣装持ち、米兵を相手の女は誰もが羨みました。

たった一年でベリー嬢は誰もがおったまげる程の美人に成っちゃって、駅前商店主は、おかみさんの 目を盗んで、あれこれおまけをたくさん付けます。

ベリー嬢はピンクが好みで十畳間を壁、天井、床の間、父の自慢の床柱まで、ピンクにペイントしてしまいました。 ぼくは好んでベリーさんの部屋に遊びに行き、ベリーもトニーも可愛がってくれたんです。

二世通訳この二世通訳は以前ベリー嬢に言い寄るも相手にされず、それを根に持ち、彼女の居る我家に来ては 己れの力を見せつけているのです。”エボニーと別れてぼくと一緒に成ろうよ” 日系二世山本軍曹はベリーさんに言います。

7月4日米国独立記念日には、キャンプは町民に開放され、駅に近いノースゲート は人、人、人で溢れます。 飲み放題のコーラ、ポップコーン、ジュース、クッキー、キャンデー、ハンバーガー等々、 皆々は我れ先に馳け寄ります。

芝生広場刈り込まれた芝生広場では、米少女によるダンスが披露。おそろいのお尻が丸見えの短いスカートで、 エイヤッと脚が上がり、ぼく達は声も無く、魅入るだけです。

クリスマストニーとベリーさんは、弟とぼくに宝石箱の様なチョコとケーキをくれました。 その全てをわずか1時間足らずで空にした結果、二人して鼻血が止まらず、隣りの朝霞病院の院長さんの 注射を受け、落ちつきました。

ダンス・コンテストその晩、キャンプ内でダンス・コンテストがあり、トニーとベリーは飛び入り参加です。 何と彼女は踊りも美事で米兵の喝采を独占します。トニーさんの嬉し気な顔が、今もぼくの目にあります。 “俺のSTEADYだぜ”

CHAMP! 44司会者のマイクが告げます。”44! TONIGHT CHAMP! 44!” トニーとベリーが優勝でした。 明くる朝、母は二人のためにお赤飯を作りました。トニーとベリーは長い、長〜いキスをしました。

所沢ジョンソン基地彼トニーの所沢ジョンソン基地への転居で、ベリーさんは入間川駅近くに越しましたが、内臓破裂で死の報が届きました。 彼の地のパンパン・グループのリンチによる死の様でした。トニーに可愛いがられる豊かな生活が、ホームレス・パンパンの反感を買ってしまったのです。

マイ・モーニングスターしばらくしてトニーは母を訪ね、憔悴しきった顔で母に抱きつき、「マイ・モーニングスター ベリー死んだよ」といって泣きました。母も泣きました。ぼくもトニーに抱かれて泣きました。 ベリー嬢19歳の春のこと。

運動会

運動会は秋に決まっていた。今日の様に春に催すことは無かった。
秋の収穫が終り、農家が一段落ついた頃です。農家では一家総出でやって来ました。
早生の柿で”つるっこ”と呼ぶ小さなのがあって、農家の子はそれを停車場の非農家の子にみせびらかしてかじってました。
ぼくがどんな食いたそうな顔をしても一粒もくれませんでした。だからぼくも、そんな奴らにはアメリカのチョコレートもガムもクッキーも意地になって、あげません。

くそくみ(糞汲み)

便所の外板にも相合傘にみなこ/のりやすが出てくる。
Sのりやす先生は美男で朝霞に都会の香りを運んだ初の男性であろう。
学校の便所はほとんどが小便でしたが、校庭の北隅の学生別のさつまいも畑に肥やしとして施した。
芋を収穫したのか、それを食べたのか記憶にないが、同級生の友が言うには、運動会の後のたき火に投げ込みみ焼き芋で食ったという。このたき火の記憶も私にはない。
肥桶を運ぶ際、桶の中の灰色に濁った小便がチャプンチャプンして腕や顔にはね上った記憶はある。
「下駄の”おずれ”ではない。”をずれ”が。”御ずれ”ではなく、”緒ずれ”だ。新しい下駄を履いた子、特に女の子はをずれで足を引きずって歩いた。その時女の子は大抵が気どってか”おずれ”を口にした」ぼくは気になって仕方なかった。変な子供だったのかな」

ぼっちゃん刈り

小学生の頃はつるんとした顔の奴も中学に進んで少しすると、ニキビが出現した。
ぼっちゃん刈りだった美少年も丸刈りに変り、ニキビ面になると急に言動が大人びて……つまり色気付いて、女生徒の事あかりを話した。イタリヤコンマなのです。
その中でニキビの出来ない奴は”女とやってるか自家発電のはげしい奴”ということになっていてぼくは、幸か不幸かニキビに見舞われたことが無く、それに悩み、ニキビトリ美顔水や雑誌に広告のある、それ用の薬を買ったこともないが「お前、お前んとこのパン助とやってんだろ?」等と言われ、無理やり言わされ、それが明日には「五回やるとニキビは出てこない」とぼくが言ったことになり、いつしか母の耳にもとどき心配させた。
ニキビ中学生がこっそり洗顔後に使っていたニキビ取りの化粧水は名を忘れたがレート化粧品の製品で、これはロカビリアン平尾昌晃の祖父平尾賛平の会社。当時盛業であった。
どんな田舎町に行っても”レート化粧品”のホーロー看板をみかけたものです。

サック風船

あのサック風船のY・Sちゃんです。

 Yの鼻に濃緑色のたとえ様のない臭さの洟が消えることは無かった。
“青葱”とも呼ばれていたが、Yはそれを上着の袖で拭い、袖は青葱が干いてブリキでもあるかにカチカチに固まった。
かといって誰もが不快がるでもなかった。もっとも駅前にはYを筆頭に三人程いたし、学校にでも行けば、Y程で無いにしてもいくらも居たのです。
当時の子供は大抵は坊主頭で、私もそうだが、家庭で父母がバリカンで刈ってくれたが盆と正月は我家の営む”鬼八あられ”の向いの長嶋床屋に行った。他に近くに無かったので子供の行列ができたYは浮浪児が如の頭で”五厘”という一等短い刈り方で”じゃりっぱげ”が目立った。顔も剃ってもらいさっぱりするのだが、床屋のおばさんは青葱が気持ち悪く、その辺は剃刀を当てずにすませた。
Yの額際には白毛のまとまって生えている所があった。又、目の下に”しろなまず”があってこれも治ることがなく、何よりも僕等が珍しがったのはYの目が常に赤かったことだ。女の子は”うさぎちゃん”なんで可愛く読んだのがおかしかった。
小学校六年生だというのにおじいさんみたいな顔で……でも気のやさしい青葱は小さな子からはYちゃんYちゃんと慕われていた。どこで覚えたか、猥歌が得意で中学生に教えたりします。すごい小学生でした。

ジャム

jam

ジャムと呼ばれる二年上級生がいた。
八十八夜の頃に成ると毎年決って頭におできが現われ、またたく間に大きく成り膿を持ち破れた。日に日にその数は増え血膿が流れ、蝿がたかる様に成ると嫌な匂いを発した。
血膿は単なる血の色ではない。青い様な黒い様な色でぼく達は、”ドドメ色”と呼んだが、それは文化パンがコッペパンに塗ってくれる”イチゴジャム”の重い色。そこで皆は彼の額からドロンと落ちるそれを”ジャム”と呼んで、彼の徒名となった。
夏休みを迎える頃になると、顔中がおできで埋り医者はヨード・チンキを塗し、顔全体が紫色に見える程だった。頭は繃帯でぐるぐる巻きにされるが血膿がしみ出し、それに蝿が寄っておぞましかった。中学生に成った彼はニキビとおできでこの世の者とは思えぬ顔で大人に向かっても「おい!Sエスくれよ」なんてたばこをねだった。大人も米兵もパンパンも
彼の手にたばこをのせた。
「たばこをなぜ”S”と呼んだが私は知らない。

氷川神社秋祭り

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第二小学校隣りの氷川神社秋祭りぼくは急いでいる。
西洋館まで来ると風向きの加減で葛西囃子が途切れとぎれに聞こえる。
ぼくは母が持たせてくれた50円の入った蝦蟇口を握りしめ走った。
ピッピッピーヒャララ どんどんっく ピーヒャラリ 朝霞には囃子連が無かったのか祭には他所から囃子連を招いた。
前の都市は秩父の馬鹿囃子に合わせてひょうきんな踊りをみせ、それが次第に助平な踊りになって、見物のお姉さん達は顔を真っ赤にし、それを青年団の若い衆が囃したて、子供のぼく達にもわかる卑猥な言葉を声高に連発し、見物衆をわかせた。
そして祭のあと、岡(地元)の◇男と〇子 はあの晩裏の城山であれをやったと四年生の教室でも話題になったりした。女生徒も男子もだれもがあれが何なのか、ぼんやりと理解していたのです。
気色の悪い子供達だったんです。

朝霞駅前、朝昼晩の巻(下)

変電所駅に向い右手の変電所の防火用水槽は蚊とパンパンの溜まり場です。 なにしろ、変電所裏は広く深い草原で、ハニーさん御贔屓の星空旅館なのですから。 それを見込んで、リヤカーの赤ちょうちんも出ます。

モモテハイツフェンス内はモモテハイツ。 外は相手にされなかったハニーさん。 思わず「がってんめ!」が口をつきます。 着物の女の首には、のど保護の眞綿が巻かれてます。

わんだら おっけーヨ駅前たそかれどき。 「へい! じいあい じょう」 「しょうとたいむ。わんだら おっけーヨ」 「ふん! しみったれやろう!」

岡田屋の火事岡田屋の火事のこと 母から聞きましたが、淫売屋の女主人は、屋根に上り 自分の赤い腰巻を外し、降りかかる火の粉を払ったそうです。 それは火の粉や炎をよけるまじないだそうです。 但し、腰巻は赤でなければいけないそうな。 ちなみに火は数件先で向きを変え、類焼をまぬがれたとか。

夏の縁側夏など家(うち)では、上半身裸のおばさんもめづらしくありません。 縁側からのおしっこもOKです。 だから日当りの縁側は一年中”しょんべん臭”がしてます。 町の匂いの代表です。

長太郎と九左衛門しゃもの長太郎と九左衛門は、時々、父につれられ、 闘いの場に出されますが、”九左”全く弱虫。 いつも長太郎が傷だらけになるも勝ち残り、父を喜こばせます。 単なる遊びではありません。 闘鶏という名の博打です。 長太郎のさいごは、両方とも足爪にカミソリの刃を付けての戦いでした。 相当共、一声も上げず、数10分の死闘の末、たおれました。 ぼくの目の中の一等残酷なシーンです。

ちゃぼちゃぼ♂1羽、♀5羽がいます。 毎朝、たまごをもらいに行くのは、ぼくの役でした。 あったかなごはんに生卵は何よりのぜいたくでした。 だから、ぼくはちゃぼをうんとかわいがったのです。 めめず、ばった、えびがに、学校帰りに少し遠まわりをして、 とって来てあげました。 喜ぶ顔がわかったんです。

引込線引込線の”終点”を知っていますか? 土手の下には桜の古木と、その元にお稲荷さんがあります。 すぐ近くに、彼の有名な”越戸の”パンパンハウス”です。 西の空をずっとたどると富士山もみえたのですが…… あの景を瞼に浮かべられる御人がいま何人居られましょうや。

授乳若いお母さんも授乳時は人目を気にすることはありません。 おっぱいをみて、顔を赤くする学生も、 とやかく言う御人も居らなんだです。

どこかのお店♣が印されているだけのお店です。 朝香町内でないことは確かのことですが、何処だったか、思い出せません。 実物大のポスターに”おかま”とあって、ぼくは母に問うたところ “男おんな”とのことでしたが、興味深い裸鬼の眞赤のポスターでした。 記憶をほじくり返せば、ヨコハマかタカサキです。 タミ―さんとGIの彼に誘われ、伊香保温泉に二、三日遊んだ時の 髙崎でのことこかと……思います。(S25) いずれにしても♣だけのお店。 今に通じるおしゃれではありません? どなたか知らないでしょうか? クラブ”Club”かね。

朝霞駅前、朝昼晩の巻(中)

たかこさんの嫁入り駅前あっちこっちにあった相合傘の”のりやす・たかこ”の たかこさんの嫁入りです。 相手は”のりやす”にあらず。お金持ちの商家の御曹子でした。

火だるま越戸パンパンハウスの管理爺が、火だるまになって死にました。 消防署も救急車もありませんでした。 左腕がひじから先が失われた爺さんは、昔、やくざとかで 刃傷沙汰で落とされたとかが自慢の大男でした。

物干し場二階の屋根の物干し場に赤や緋、桃色の腰巻がはためけば、 そこは看板なぞ無くても、パンパン屋なのです。

へべれけのGIBANG! へべれけのGIが指ピストルでアメリカ風か、3段の雪だるまに 何やら悪たれ口。 「てきりいじい」日本人警備員がいう。

駅舎に隣接のRTO駅舎に隣接のRTO (Railway Transport Office) 春の突風がハニーさんのスカートを捲げます。 もちろん町は未舗装です

泣き売若い男がオーンオーンと泣くと、中年男が声高に、 「そいつぁ、かわいそうだ……、一流品だぜ、……安いや。 ぼくは2本いただく、皆さんもどうぞ!」 で、我も我もと手が出る。 そして、お巡りさんの姿に、さっと逃げ出す。 疑い物万年筆の”泣き売(ナキバイ)”です。

空き缶ガラガラタミ―さんがGIジーマーマンさんと”はねもん”に出発です。 空き缶をガラガラ引き摺って、でっかい自動車です。

モモテハイツのメイドさんモモテハイツのメイドさんです。 夫人ではありません。 メイドは米国直輸入の最新水着をきせられ、”わらめろん”のお八つを運びます。 彼女はメイドであることが、とっても自慢です。 アメリカ人ですかって聞いてやると一番喜ぶんだそうです。

ハウスボーイハウスメイドばかりか、”ハウスボーイ”もいて、 表向きは下男、雑役夫ですが、その実は婦人兵の 相手をする色子だったのです。

朝霞駅前、朝昼晩の巻(上)

脱走兵脱走兵が、勘さん八百屋の裏に追いつめられ、銃撃戦です。Oh Shit ! Snowbali ! 黒人兵が叫びました。 スノーボールは白いヘルメットのMPをいふスラングだそうです。

朝の東ゲート前朝の駅前は駐留軍労務者の一団が東ゲートに向います。 朝帰り米兵も軽い足どりです。 ぼくたちは学校へ、ハニーさんは広安舎のおじさんを呼びとめ 牛乳をゴックン。牛乳は20円也。

かみしばい屋髙野さんかみしばい屋髙野さんのおばさんは町内一の巨乳です。 7人の子持ちで一人生むごとにおっぱいが大きくなり、 末っ子を生んで一尺近くもたれ下り、背中の赤子にひょいと ほうり投げると赤子も上手に口で受けとめました。

小正月の繭玉繭玉。 ぼくん家の玄関です。 小正月のならわしで、米兵はピンポン玉とまちがいます。 いつ頃まで続きましたっけか。 昭和30年までは覚えているのですが

髙橋洗濯屋駅前通りの外れ、髙橋洗濯屋の下請けで、仕舞屋のおかみさん達は GIの洗濯をしました。それまで竹竿に干していたのが、 この頃からロープにつるす米国風に変わりました。

PaydayPayday。 この日が月の何日であったかは記憶にないも、 ハニーさんや水商売の人は朝からゲートにつめかけ、 特にオンリー嬢は彼を他の女にとられない様、めかし込んで待ちます。

米兵のとり合い「あたいの客だろ!」 米兵のとり合いで殴り合いが始まります。 そのすきに別のハニーさんが、米兵をさらって行きます。 こんなの駅前の”当り前”なのです

子どものくらし(下)

しょんべんスイカしょんべんスイカ。 無駄食いしたスイカに小便をひっかけ、 Mさんのばあちゃんが手を出すのを隠れ居です。 ばあちゃんはごはんもろくに食べさせてもらえないので、常に腹が減ってて…… こんなスイカも食っちゃうのです。 ぼくは、ぼくのしょんべんスイカは食べないようにと神様にいのります。

お弁当の時間皆、弁当をかくして食べます。 特に女の子は頭から新聞紙や風呂敷をかぶって食べるのです。 麦7、米3のぼぞぼぞ飯に梅干しやたくわんだけで、はずかしいのです。 でも、みんな似たりよったりなのです。

そろばん学校第2小隣りの氷川神社社務所での、そろばん学校。 教えて下さるのは鈴木大工さんとこのお兄さん。 ぼくは昔からの知り合いが故、「お兄さん」と呼んでいたが、 ある朝、朝礼台に立ったお兄さんを校長は「体操の鈴木先生」です。 で、その時から、「お兄さん、お兄さん」と呼び、担任からお目玉をたびたびいただいた。 戦後のこととで先生が少なく、”代用教員”制度で、教壇に立つ先生が多かった。 よって先生方は若く、どうみたってお兄さんだったのです。

浅草は松屋の若鬼丸若鬼丸。浅草は松屋7階スポーツランドの鬼で、 腹にボールを当てると「ウオー」両腕を上げます。ぼくとベリーさんが夢中で遊んでいるうち、母は財布と時計、ベリーさんは米ドルのつまったハンドバックと、何と履いていたはずのハイヒールまでが盗られてしまったのです。浅草はスリやきんちゃくきり、ちゃりんこの本場でした。

絵かきうた絵かきうた。 “いけません”と言われりや余計書きたく成ります。 Y坊は担任の女先生なぞ屁でもない問題児です。 ◯◯先生の◯◯◯◯、黒板に大書します。

火の要慎カチ、カチ、カッカッチ「火の要慎、まっち一本火事のもと 父さん、たばこに気をつけよ。 母さん、かまどに気をつけよ。」 かまどがまだ、つかわれてました。

脱走兵脱走兵が、勘さん八百屋の裏に追いつめられ、銃撃戦です。Oh Shit ! Snowbali ! 黒人兵が叫びました。 スノーボールは白いヘルメットのMPをいふスラングだそうです。

子どものくらし(上)

子供のくらし戦時中の防空壕はハニーさん達が住みつき、そこへ米兵が訪れます。ぼくたちも「はい、はねえ、はわゆ」カタカナで聞いた英語をひらがかで口にしてみます。

黒目川左岸、泉水の山黒目川左岸、泉水の山です。ぼくたちはのぞきに来た訳ではない。山百合の根を掘りに来たのに。山ん中は怖い程静かです。米兵もハニーさんもきっと怖いんです。ぼく達のすぐ近くに割り込んできたのです。見ないわけにはいきません。

ガキ大将ぼくたちにもテリトリーはあった。少しでも侵そうものなら、どこからともなく現れたガキ大将とその子分、「まてえ!停車場の奴だんべ。どこいくんだ。通してやっから50円だせよ!」で、ぼくは恐ろしさに負けてしまうのです。そして半べそをかいちゃう。

ラジオ体操会夏休みラジオ体操会。中学を終わったばっかりのパンパンのお姉さんも加わります。越中ふんどしは、たばこやのおじさんです。いつもうんこで汚れた手拭いで仕立てた越中でした。

朝霞第二小学校の運動会運動会は秋にきまってます。入場門も万国旗も全てぼくたちの手作りです。キュロットスカートは、ぼくのあこがれ都築先生。写真機のおじさんは南栄の谷合写真館主で、遠足も学芸会も臨海学校も何んでもついてきて、写真を撮って下さいました。ぼくの小学時代の写真はみな谷合さんです。まだカメラなんてお金持ちの道楽でした。

松光山東圓寺はお不動さんの滝松光山東圓寺はお不動さんの滝の昼と夜。 ぼくたちは滝を浴びますが、あまりの冷っこさにちんちんが体ん中へ めりこんじゃいます。 歯の根が合わず、みんな「あわわわ、あわわ」 蛍がとび交います。 中学生のお兄さんに連れられ蛍狩りも、ぼくたちは、のけもので、 お兄さんはのぞきに精を出します。 お堂裏からは、LAXとCigarが香ってきます。 中学生は忍者のように匍匐前進です。 蛍を握ったぼくの手は汗ばみます。

大工の洋ちゃん大工の洋ちゃんは虫とり名人。 ぼくを”自転車のけつ”にのっけて遠方まででかけ、 当時すでに珍しかった、くわがたを手にした。 昼は母の持たせてくれたおむすびに手はつけず、やはり母の持たせた 一升瓶の酒をらっぱのみし、 「お~う、おっぱらったぁ」とぼくを酒匂い体で抱きしめてくれた。 そしてぼくの言うことは全て聞き入れてくれた。 大好きなおじさんです

GIトニーとギャリー

二人の米兵トニイ23才とギャリイ21才の話です。 二人はハニーさん達には目もくらず、いつも 二人での仲良しです。「隊を離れて静かに 時を過ごしたい」とのことで、我家の六畳一間の 別軒に居ました。私は高三で年も近くすぐ 仲よく成りました。トニイは日本語はペラペラ ですが、前出のニールさんの如、読み書きは できませんでした。騎兵隊員とのことでしたが、 二人は制服で現れた事は一度もなく 決って長ズボンを膝下辺りで切ったハンズボ ンです。それでもっすが進駐軍の豊かさ きちんとプレスされています。足元はといへば ビーチサンダルと呼んだゴムぞうりでした。

彼女の恋心私の知り合いに二人のデパートガールがいました。当時デパート ガール、すなはち百貨店女店員に成ることは大変 な事で家柄も含め眉目秀麗、品行方正、 学業優秀…加へて身長百五十四センチ以上な る条件を有せねばなりませんでしたので、二人は 鼻高々のなまいき女でした。その一人がS子。私の紹介 でトニイ、ギャリイとトランプをしたり茶を飲む 内にギャリイに恋をしてしまったのです。そして 彼女は彼に恋心を打ちあけましたが、ギャリイは 戸惑うばかり。ついには彼女をさける様になり ました。又ギャリイはトニイに比べて大そう大人し く、私達とまったく口をきくこともない男で す。それでも“horse cavalingだよ”トニイが 笑いました。

言葉の壁そこでS子はラブレター作戦に出たのです。 ギャリイは日本語は全くだめで、トニイに手紙を渡す もトニイも文字は読めず、手紙は私の元に。 その手紙がすごかった。オリエンタルムードをねらったが 毛筆の手紙は、ヴェルレーヌの恋歌から始まる 巷に雨の降るごとく、わが心にも涙ふる… そしていかに自分がギャリイを想っているかが続くのだが、 私の読むのをトニイは大笑いで聞き、直ぐギャリイ に話す。ギャリイも大笑いで、「オーノー」を くりかえす。そしてこの手紙はトニイの手から 基地内の日本人労務者(モータープールのAさん) に渡る。S子はあらぬうわさを立てられ、町から 失恋失意のまま消えたのです。その後、私ががある ハニーから聞いた所によると、トニイとギャリイは 出来ていて当然二人共女性には興味の無かった ことを知った。言われてみれあ私にも思い当るふしは いくつかあった。と同時に我家から二人も消えた。 何のあいさつも無く消えた。三か月分の家賃も 踏み倒されて。 その後、S子は他のオンリーさんになったと風の うわさは伝へたが、確かなことではない。S子存命なら(平26時点) 76才になっている。

皮のグローブローマ字を習い始めた頃だから 四年生だったか。 東ゲートに立つと米兵の野球練習が 望め、ぼく達も野球に夢中だったので よく見物に行きました。 赤と白のユニホームのかっこ良さに先ずおどろき 本物のグローブの球を受けた時の音には 言葉もありません。審判を女性兵士かが つとめていたのにも…。とにかく何にもかににも おどろくばかりです。本場ののベースボールです。 ぼくは“ヒヤエナ”と読んでいたが“ハイエナ”といふ チームでした。 この中の66番のごっつい青ひげの兵隊さんから ぼくは彼の使った本物の皮のグローブを投げてもら いました。…が、学校に持って行って 盗られてしまったのです。毎日毎日 ボロ切れでみがいて、夜も枕元に置いて 大切にしていたので……。ぼくは泣いてし まいました。66番のひげに何度も何度も 「サンキュウ ベリマッチ」をいって「宝物にします」なんて 言ったグローブでしたに。

またみてね

またみてね

学校のこと町のこと、少々-3

井戸屋馬頭観音様の向いにあった井戸屋は夏はアイスキャンデーを売り、冬は焼芋を商った。今、“栗よりうまい十三里”なぞいうがここでは古いそれはそれは汚い壺に“八里半”の紙がはられていた。確かな解説は覚えてないが、栗(九里)より上の意らしい。 「十三里」言々は明治後のおとで、それ以前は「八里半」だったとものの本にある

エーンヤコラ!新築建ての土がためです。親方の合図 で重石のロープを引くのは近所のおばさん 達です。おばさん達も力を合わせるために 歌をうたいます。 父ちゃんのためなら“エーンヤコラ!”とやってから あとは思い思いにアドリブです。 「今夜の晩メシ、何にしよ」と誰からやると 「すき焼なんかが食いたいね」と返せば 「そんなくらしはいつくるの」と笑う。 赤ちゃんを背にした人は殿のつな、なんでも 一番楽なのだそうな。仲間の思いやりがつたわる。

キリン堂薬局三角の立派な立看板は大きく「ルーデサック・衛生サック」と。この看板はS28年頃は立っていた。ちなみにこの薬局はH26現在同地(池袋東口)にあり。この種の立看板今ではほとんど見られません。朝霞でも駅前通りは野本助産婦と種六という種屋位いではなかったでしょうか。

あんまのたかのさんそのお乳の出が悪いとか、乳が張るとかのお母さんは、銀霞堂前の路地に居た、あんまの高野さんにちちもみをたのみました。実際に施している場をみたことはありませんが、有効だった様です。母は肩こりがひどく、ぼくはよく高野さんを呼びに行きました。 あんまさんは母の肩に日本手拭をかけ、必ず「つかまらせてもらいます」と頭を下げてからもみりょうじ(揉み療治)にかかります。そして町の様子を話し続けました。ぼくはいつもこの人“見えてんじゃねえの”と思ったものです。

天ぷら学生押売りの多くは“苦学生”を売る。同情し求めたゴム紐は一日ともたずのび切り、マッチは着火せずですが茹で玉子がこの天ぷら学生の専売特許古い廃棄寸前の玉子を超安値で求め茹で値を上げて売る。買うのは家なし宿なしのこじきパン助と言われる女達です。電柱によりかかったままパクつく。「ねえ、苦学生!塩はロハだろ!」「はい。特別無料です」

二本指のマドロス「ゆんべ横浜に着いた。船乗りだよ」と縞のシャツと裾の広がった白いスボン、錨のマークの帽子の男、実は疑い物の押売りでスイスの時計、イギリスの服地、ブラジルのコーヒー、ドイツの刃物、アラジンの魔法のランプなんていうのもあって…我が母も父に背広地。もちろん耳にはMADE IN ENLANDの文字。を購入したが、用尺も足りず、ドンゴロスとか呼ばれた粗末な布で、まんまと騙された。何しろ母の所に数時間もねばった男をぼくはマドロスさんということで興味を覚え、左でが親指と小指だけを問うたところ「遠い??北の海で海賊船と戦い青龍刀でぶっとばされた」と。詐欺師の口はぼくを酔わせた。もちろんマドロスもでたらめ

学校のこと町のこと、少々-2

稲穂の匂い
昭和27・小五の三月十七日、同級生K・H君が “キュウセイ チョウネンテン”で死んだ。 ぼくは組を代表して埋葬に参列した。 穴堀りおぢさんがしゃれこうべを二つ掘り上げて 手を合せ“こりゃあ じいさんのだんべえ”と小声 でいった。 体格の良いK・H君は大人用のガンバコに入れら れ皆で少しづつ土をかけた。 彼の匂いは今も覚えている。農家は家の中で 藁を焼いて台所仕事をするので、その匂いが 衣服にも染みこんで稲藁の匂いがしていたが、 ぼくはこの匂いを好んだ。秋の夕ぐれを思わせる。

停電関東配電(東電)もちょくちょく停電をみた。それを理由に宿題をさぼったが先生は必ず「停電の前に何故済ませなんだ」とゲンコツをくれた。ローソクのあかい灯がなつかしい。「ローソクを悪さするんじゃないよ!」母の声も耳にある。

大関千代の山この回は話につながりはありません。思い出したこと、少し画いてみました。大関千代の山一行が朝霞中学校へ来ました。興行を終った一行は父の営む緑ケ丘の湯へ汗を流しに来ました。ぼくと平山君は一緒に入りました。(平山君はイタリアンレストランポニーの一人息子で同級生です)

ちんちんお相撲さんのちんちんは大根位いでっかいと中学生のガキ大将に聞かされていたので千代の山のちんちんはさぞでっかいと思ってたのですが、…ぼくはがっかりしたのです。だって酒を飲むとすぐ裸踊りをする三角屋のおぢさんと少しもかわらず、逆に体がでっかいだけにつまんない位、小さくみえたのでした。これは体の大きさに比例するものでないこと、知った次第です。下ねた御免。

貸本屋駅前通りに銀霞堂と吉原肥料店にはさまれ一進堂といふ本屋がありました。母は“主婦の友”ぼくは“小学○年生”を一年生入学と同時 に毎月とっていましたが、一進堂にはまんがが少なく又、高価で買えません。そこへ全国に貸本ブームが来て、朝霞にも我家の家作に小さな貸本が出来ましたが、貧乏な店で数冊しかなく猫と薄気味の悪い人形の方が目立ちました。何故か分厚いHolyBibleが何冊も積まれてました。営団緑ヶ丘に一軒、古川さんというしもたやが貸本を始めましたが、似たりよったりでした

秋祭りお稲荷さんの広場の盆踊りが終ると 秋祭りの用意が始まります。そこここの 商店主が我家に集い、お囃子のけいこ です。笛は父が受けもち、太鼓は“おかめ”と 屋号の荒井さん。締太鼓は床屋の親父 鉦は…忘れましたが、これがみごとな祭囃子 で、皆はびっくりでした。おかめ、ひょっとこは 確か青年団の役だったと思います。舞台は 吉野肥料店と長嶋床屋の間です。 今に思えば、あの頃の商店主たちは結束 も硬く、何よりも個々が一芸を持っていたの ですね。驚くばからいです。 もちろんGIもパンパンを抱いてみています。 “オオ、ファンタスティック”そしてぼく達も 口まねする。 “おお はんたす てっく”

学校のこと町のこと、少々-1

 

はじまるよはじまるよ

便所のはなし学校の便所です。女子は決って何人が 連立ってトイレに行くのが、ぼくは不思議です。 注意してみてると、今でも女の人はそうみたいで すが……。わかりました。昔日の便所は怖かったの です。特に学校のそれは便壺がつながっていて とにかく深いのです。ためしに小石を落すと ちょっと間があって、ポチョンと音がします。 もし落ちたら先ず死あるのみです。それに きんかくしを跨ぐと「お尻を拭いて やろうか」と赤い手青い手がのびて来るという ことで、ぼくは一度も学校の女便所(男子 も共用だが、戸のあるきんかくしのある方をそう 呼んだ)で一度も用を足したことがなかった。 それはぼくだけでない。弱虫の男の子はだれ もがそうで、中の一人は月の内一度は“うんこ もらし”をやった。そしてズボンの裾口から 流れ出たやつを道に落し落しオーンオン オンと泣き声をあげて帰った。

宝くじ同級生のK君は“こじき”と渾名される 子でした。坊主頭ものび放題、身なりもおんぼ△ 二本洟をたらし、カバンも無いので、風呂敷包△ の教科書で登校です。が二年生S25?の時 宝くじ壱等百万円が当り、全てが一変しました。 家は新築、衣食も改まり、当時高値でした 金釦の何十と付いたオーバーコートに皮靴で の登校に学校中の目を集めました。 それまで持ってきられなかった弁当も、昼近く になるとお母さんが、これまた“パンパン風”の装いで 「食はたまご焼にしゃけだよ」なんて持って 来たりしましたが、二つの鼻の穴から 青いねぎの様な二本洟は変わりませんでした

雑巾がけ教室廊下掃除は放課後生徒のすることに なってます。長い廊下はぞうきんがけをしますが 子供の力では雑巾がきっちりと絞れず、ビチョ ビチョのまま廊下をすべらせるだけです。 なので床は水を絞っては乾きのくりかへしで 白くカサカサでした。何故か男の先生は棒を手 にしての監督です。水道なんて有りゃしません。 外の井戸までバケツを持っての往復でした。

とび箱総じて運動は得意でしたが、とびばこの 八段はなんともならなかった。放課後一人で 練習をしたが、終いには頭から落ち、顔面を 打ち、鼻血はマットを染めた。 小使いさん(内田七之助さん。同級生いつ子さんの お爺ちゃん)に手当てしてもらった。七之助さん の手にしているのは、青いホーロー引きのやかんと 大きな渋団扇です。

富士見商店街(下)

畑は遊び場畑という畑は子供達の遊び場でした。所々に室(ムロ)と呼ばれる穴が掘られていて落ちてしまうことがありました。室の中は種芋やら麦わらが入っていてそうした訳が決まってでっかいガマガエルがいたんです。

室畑という畑は子供達の遊び場でした。所々に室(ムロ)と呼ばれる穴が掘られていて落ちてしまうことがありました。室の中は種芋やら麦わらが入っていてそうした訳が決まってでっかいガマガエルがいたんです。

コエダメまた畑には”コエダメ”と呼ぶのがあって大きな材角やらコンクリートで作られてたものが埋められ農家のおじさんが近所から集めた”オワイ”(くそ、小便)を入れて寝かせているのですが、時々遊びに夢中で落ちる子がいました。これは部屋代を浮かせるため麦畑へ米兵を連れ込んだパンパンの目の前でGIがたっぷりの”コエダメ”に落ちてしまったのです。現岡1丁目で学校帰りに目撃したものです。

コーモリ傘雨の日はゆううつです。傘が必ず盗れたのです。初めは黒いコーモリ傘で東京のおばあちゃんが、くれたもので大切にしてたもの。次からは安い唐傘という紙と竹で出来たもの。それは全て盗まれます。当時雨の日でも傘もなく通学の子も多かったので仕方ないです。業を煮やした母は家業のせんべい屋で客に貸し出す屋号入りの大きな番傘を持たせるのですが、それすら盗まれたのです。女の子は芋の葉を傘にしてます。下駄は歯の高い雨の日用のものです。

甘えっ子ただ雨の日の良いことは母の膝で絵本を読んでもらえることです。入学前から繰っていたもので、3年生になっても続いていました。ある時友達に見つかって”甘えっ子”が広められました。僕の好きなのは横山隆一の”ふくちゃん”田河水泡の”のらくろ”宮尾しげをの”日の丸旗之助””○□サン・ゝ助サン”です。

うんてい秋が来て運動会が近くなると体操時間はその練習に当てられます。女のかは黒いブルマー男の子はズボンを脱いだだけの普通のキャラコのパンツですが運動会の日は新しいパンツになりました。僕は運動が得意でしたが、ただひとつ”うんてい”というのが苦手です。上手に体をふって次に進むことが出来ませんでした。男の子は運動会でも裸足でした。せいぜい裸足足袋をはきますがすぐ破れ結局は裸足が一番丈夫なのです。ちなみに母は近所の女の子にブルマー製ってやっていましたがその型紙に”女子運動用黒布襞入裁着袴”とあります。

おびとき第二小学校に隣接する、岡氷川神社のおびとき(七五三)風景です。休み時間になるとぼく達は宮参りに来た人の先にかけ寄り赤飯、みかん、飴、まんじゅう等々配ってもらいました。米兵の服をまねた祝い着のこどももいます。中央の大樹はいちょうで子供が四、五人手をつないでやっとかかえられる程のものでした。夏はこの下で授業をすることもありました。教室は扇風機も無かったのです。

すずめ10円秋になると雀は大いに太るのです。それをこんな仕掛けでつかまえ。大人の酒の肴にしますがざるには入るのですが、いざ手を入れてつかまえる時に100%逃げられました。この雀を一羽いくらで買い集めるおぢさんがいたのです。確か10円とか20円だったと思います。一杯飲み屋には”すずめ焼き”といふものあって100円近い価だったようです。コッペパン1コ10円、納豆同じく10円の頃です。

富士山に届け冬が来て……冬休みになって、ぼく達は凧あげに興じます。竹を細かく割いて家族で作る人もありますが、僕は第二小前の駄菓子屋、文房具を商う「けんちゃん」「かくちゃん」でかいました。商店街の裏手の畑に出れば西南の方に富士山が見えいくつもの凧が富士山に届けとばかりに上がりました。パンパンも米兵も一緒に揚ました。この町のパンパンはぼく達とも顔見知りで誰一人パン助なぞと蔑む子なぞありません。「お姉さん」と呼びました。僕たちはお姉さんとも米兵とも仲良しでした。