市議選余聞

黒川滋市議の二期目に向けた挑戦の過程で、明らかに選挙中毒と思われる高齢のスタッフが現れ始めた。
日頃はあまり市政に関心を持つこともなく、孫の相手や連れ合いの病院通い、買い物で過ごしていた人たちの日常に変化が生じたのだ。
朝のこまごまとした家事は後回しにしても、とりあえず後援会事務所に顔を出さないと、その日一日落ち着かないという気分を持つ人が次第に増えた。
日頃はベランダで日向ぼっこか昼寝に当てていた時間帯を、事務所で過ごすことが習慣になり始めた。
こういう人たちは事務所の中でじっとしていない。慌ただしく出入りする議員本人やスタッフのために雑用を見つけかいがいしく働き出す。お茶を入れる、話し掛ける、愚痴を聞く、噂話をする、人生経験は豊富なのだから言うことに間違いはない。そして自分の役割に満足する。
そして何よりも彼ら彼女たちはヒトを知っている。長い人で60年、短い人でも20年は朝霞に住んでいるので、その人脈は凄い。
これまでは地縁、血縁を優先して投票していたが、基本的には誰に入れても、何も殆ど変らないことも知っている。
だから今回はこちらの誘いを天命のように受けて、田谷さんのためにと動いてくれる。
育児や子育て、アベノミクスに無縁の若い人は忙しくて頼りにならない。スタッフを高齢者に切り替えて作戦は大成功。

一方、選挙戦終盤に入ってからは、選挙カーから手を振ることによって、首、肩の痛みが消えた女性スタッフや選挙カーに頻繁に乗り降りする内に腰痛が取れたという男性スタッフも現れた。
これらを観察すると、選挙は高齢者の生きがい探しに役立ち、若いスタッフの健康管理やリハビリにも役立つことが分かる。
さらに一週間のやかましい連呼に耳をふさげば、選挙というものは地域の印刷屋、看板屋、自動車屋、飲食店、はてはウグイス嬢にも特需をもたらすものであることを実感する。

閑話休題

さてその選挙であるが、本人の四年間の地道な議員活動が評価され、1,400票を獲得し、定員24人中の12番目で当選した。
選挙戦終盤、他陣営各議員のこれまでの実績、まちの噂、勢い、雰囲気を勘案し、1,430票、11位当選と予想していたので格別の驚きはない。
市長提案がすべて通る与党体制の中で、無党派を貫くのは大変だろう。時として投げ出したくなることもあろうが、45歳の働き盛り。唯一の知性派、理性派議員として市民は評価したのだから、なお一層頑張ってもらいたい。

今回の選挙で気になるのは朝霞市民の市政に対する関心の低さである。かつての自分を棚に上げて言うので気が引けるが、投票率34%は全国自治体でもワーストクラスの低レベルであるし、NHKの受信料不払い運動のみを訴えた妙な泡沫候補を当選させるとは、朝霞市民の民度の低さを示すものとして聊か恥ずかしい。

黒川市議本人は、市内を歩き回った選挙期間中「明白な高齢者の増加」と「認知症患者を抱える世帯の増加」を痛感したという。
しかしこれらは取りも直さず、今後の朝霞の取り組むべき重要課題で、彼の得意分野でもある。
こういうテーマには与党も野党もあるまい。中長期計画のキャッチフレーズ「住み続けたいまち朝霞」の実現に向けて、議会も行政も真剣に取り組んでもらいたい。(2015.12.16)

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サテンで出来たジャンパー

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ぼくが欲しくても手に入れることの出来なかった唯一のもの。サテンで出来た、いかにもアメリカ人好みの派手なジャンパーです。繻子の艶があざやかな絹色系のししゅうに、さらに映えてこの上のない美事さです。
白人兵よりも黒人兵に良く似合います。ぼくの好きなトニーさんも着ていて、南栄の小池商店BUSY・BEEで売ってます。
ぼくもこれが欲しくて母にせがみ、母と小池商店に行きましたが、小人向けはなく、特別註文とかで……それには20ドルが必要でした。
S25当時それは大金です。たとえば適さないが、S25当時パンパンが米兵から得るのはショートタイム三百〜五百円、一時間五百〜千円。
オールナイト千円〜二千円(東京一高い新橋で)。一ドルが360円です。20ドルとは高価ですが、それは手の込んだもので、ししゅうは中国人職人の全て
手仕事だったのです。今日、時々見かけますが、ちゃちな布とししゅう、何と安っぽいことが。そう当時のそれはとても上品でした。

国内ゴルフ場350コース到達

ゴルフ仲間にハンデイキャップを自慢する人はいても、プレーしたコースの数を競い合う人はいない。だから350コースでプレーしたことが凄いことなのかの判断材料はないが、現役当時かなりゴルフに入れ込んだ仲間でも、せいぜい100か所、多くても200か所のようだから仲間内では俺が一番と思うことにする。
ただしゴルフにおいてロウハンデを目指すことなく、ゴルフ場の数を目標にしたのは明らかに邪道と言うべきで、このことで羨望の眼差しや尊敬を集めることはない。

全国に2,000コース以上も存在するゴルフ場を完全制覇するなどと考えたことはなく、自慢できるのは全都道府県でのプレーと最北端から最南端に至る国土の一番端っこでプレーしたことであろうか。
統計には1957年(昭和32):116コース、1975年(昭和50):1,000コース超え、2002年(平成14):最多2,460コースとある。
ただしバブル経済の崩壊とともに、この年をピークに閉場するゴルフ場が増え始め、現在営業しているのは2,300コースくらいと見るのが妥当のようだ。
さてこうした中で350コースに到達した。この区切りのいい数字を演出してくれたのはNT-3の仲間たちで、12月10日、由緒ある名門コース「日光カンツリー倶楽部」がその舞台となった。
当日は冬には珍しい無風快晴の小春日和。
ここは男体山を背景に日光連山が取り囲む昭和30年開場、井上誠一設計の名門コースである。559ヤードのロングは4打でやっと辿り着く長さだし、ショートも180ヤードを超えるものばかりで、腕自慢のNT-3といえども容易にワンオンしない。
二人のキャデイを引き連れた歩きのスタイルは本格的だが、電動カートに慣れた身には結構きつい。
しかし7,000ヤードを歩いて廻ったゴルフスタイルは疲れの中にも充実感を覚えたのも事実である。

実のところは区切りのいい、今回の350コースを最後に引退を仄めかしているのだが、仲間は容易に承知してくれそうにない。
しかも悪いことにこの「日光」がゴルフの魅力を再び思い出させたのも事実で、決心がぐらつきそうで不安である。
(2015.12.15)

朝霞某所のK旅館

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年中“女中さん募集”の張り紙を出していたが、“住込みさん”に限られた。埼玉新聞にも求人広告を出していたが、“住込み”は売春をすることを意味することは誰もが知っていた。
これはK館の昼間。表通りからも裸体に薄衣をまとった女のひとが見えた。S26年頃。
K館は新聞には温泉旅館をうたっていたが……いかな由か?
又ここの客は米兵ばかりでは無いことは子供達も知ってい、中学生達は“〇〇のおやじがやりに来た”あのおやじ助平だからな、などと笑っていた。

ハードボイルドの第一人者逝く

小鷹信光さんが12月8日、膵臓癌のため亡くなった(79歳)。新聞報道によれば今春に癌が発覚したが、すでに手術ができない状態にまで進行、仕事に集中できないと治療を放棄して緩和ケアのみを受けていた。最後まで自宅で過ごし、“なすべきことはすべて終えた”と言ったという。まさにハードボイルドの第一人者に相応しい最期である。

小鷹さんとの接触は、今は亡き須永誠一君の紹介から始まった。二人は早稲田大学ミステリークラブ時代の仲間で、こちらが「頼れる大人の会」の講師探しに奔走していた頃に紹介を受けた。
しかしこの世界で超のつく有名人が果たして我々のような小さな会に来てくれるだろうかと最初は半ば疑っていた。ところが挨拶に伺った所沢のご自宅でも、須永君は本名の「中島クン」を連発していて、二人は極めて親しい間柄であることが分かった。

さてその所沢のご自宅であるが、これには吃驚を通り越して度肝を抜かれた。一万冊を超えるという1950年代からのアメリカのミステリーを中心にしたペーパーバック(パルプマガジン)、アメリカ映画の関連図書とプログラム、ポスターの山、膨大なゴルフ雑誌とコレクションの数々、しかもそれらすべてが英語版。マニア垂涎のお宝が所狭しと、しかも整然と並べられている。まさに図書館の閲覧室。この中に数日居続けたとしても飽きは来ないだろう。小鷹さんはそんな中からビンテージものを取り出し、嬉しそうに解説してくれるのだが、こちらはハメットの『マルタの鷹』、チャンドラーの『大いなる眠り』を翻訳本で読んでいる程度で全く相手にならない。
しからばゴルフではと、“日本の都道府県全部でプレーした”と宣言してみたが、“俺はあと二州で全米制覇だ”と言われ全く歯が立たない。挙句、“アメリカにはアリゾナ州、ニューメキシコ州、ユタ州、コロラド州の州境が一点に集まる「フォーコーナーズ」というところがある。俺はそこで麻雀をやった。”と四州の各州に一人一人が陣取って雀卓を囲む写真を見せられてギャフン。世の中にはもの凄い人がいるものだと感銘を受けた記憶がある。

こうしたご縁をきっかけに、その後「頼れる大人の会」や「企業OBペンクラブ」での講演をお引き受けいただいたほか、紀伊国屋での講演会、代官山蔦屋でのトークイベントなどで何度かお会いした。講演会の帰途、酒を呑まないクルマ好きの先生にウチまで送ってもらったこともあったが、昨年10月お会いした時には“まだまだ元気だよ”と笑顔だった。しかしそれが最後になった。

「ハードボイルド」とはそも何ぞやを記して小鷹信光さんへの追悼としたい。ハードボイルドとは直訳すれば、固茹で玉子。俗語では食えない奴、手強い奴を意味し、その後、見掛けだけはタフな奴、突っ張った奴、鼻っぱしの強いゴロツキとなり、現代では「情け知らず」、「冷酷」な探偵ものの代名詞となった。
ハードボイルド小説はダシール・ハメットの「マルタの鷹」(1930)を嚆矢とするが、日本に輸入されたのは1946年。この年が日本のハードボイルド元年と言え、双葉十三郎氏が「ハードボイルド゙」というカタカナ英語を用いてレイモンド・チャンドラ―の「大いなる眠り」を紹介した。

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最後に小鷹さんの挙げるハードボイルド小説№1は
マルタの鷹

映画は
三つ数えろ
役者はハンフリー・ボガート。襲撃映画(ドロボー映画)

ベスト3も挙げておく。
アスファルト・ジャングル(1950 ジョン・ヒューストン)、

現金に体を張れ(1955 スタンリー・キュブリック)、

男の争い(1955 ジュールス・ダッシン)。

(2015.12.14)

Dean Martin デーン・マーチン

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大宮の馬場蒲団店(H27・9現在盛業中)から毎日唐草の風呂敷を担いで来たおぢさんは傷痍軍人で身体に銃弾がいくつも入ったままだとかで歩行に困難があり体も始終ふるえていた。
一メートル八十センチに近い長身で、当時としてはかなり目立った。米兵と肩を並べても引けをとらず、特に顔立ちは日本人離れし、米国の映画俳優であり、歌手でもあったデーン・マーチンに似ていた。
おじさんは貸蒲団ばかりでなく、米兵・パンパンを通じて入手した米物資のありとあらゆるをやみ屋として利を得ていた。
たとえば“ラッキーテンボックス”欲しいんだけどと言えば、即日入手出来た。
ある時、パンパンと金のことでもめていた米兵に不自由な体で近づき、何やら二言三言言うと、いかった米兵は、“イエスサー”と敬礼をしパンパンに米ドルを渡して素直に去った。おぢさんは英語も出来たのだ。
何でも帝国陸軍の大尉さんだったと聞いた。本名、小林開一さん。

BLACK ONLY “BAR CHERRY”

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南栄にある“BAR CHERRY”は“BLACK ONLY”です。白人兵と黒人兵は仲良くありません。白人兵のBLACK差別に起因しています。
毎晩のようになぐり合い、格闘がありましたが、大抵は黒人兵が勝ったようです。
M・Pが飛んで来て治まりますが、当初MPは白人同士が組む二人組でしたが、白人MPはどうしても白人兵の肩を持ってしまった様でパトロールのMPは白人、黒人の二人組に成りました。
白いTシャツの黒人兵のズボンは昭和29年に入ってきた“マンボ”のペレス・プラードの着用せるマンボ・ズボンで、日本でも大流行をみせたもの。
腰部は日本タックでゆったりとし、次第に足首に向け細まって、裾は四センチ巾の折り返しがあります。
後年、“脚よりも細いマンボ・ズボン”と説く方もあるが、大きな間違いです。
“脚より細い”のはその後にやってくる、ロックンロール(ロカビリ)の若者のものです

裁かれるは善人のみ

近年で最も映画鑑賞の少ない年になりそうである。年内に公開予定されている洋画のラインアップに食欲の湧くものはなく、今年は30本台で終わることは間違いない。
12月を待たずにベストワンは何だろうかと考える。挙げるとすればロシア映画『裁かれるは善人のみ』(原題:Leviathanアンドレイ・ズビャギンツェフ)であろうか。


ロシア北部の荒れ果てた自然に囲まれた小さな町が舞台。そこで起こる土地再開発をめぐる警察、裁判所、教会の権力癒着の構図は世界共通にも思えるが、まだまだ民主的とは言えそうにないロシア社会の息苦しさが重層的に伝わってくる画面である。
砂浜に横たわる朽ち果てた船や鯨の遺骸、北極圏で撮影されたという映像は美しいが、極めて苛烈。
権力者と司法の癒着や聖職者の堕落といったテーマは都会を舞台に、過去いくつも作られてきたが、この荒涼とした大自然の中での人間の闘いとしたことで作品を成功させた。

スリラーでもあり政治批判劇でもある。しかし最後まで正義が勝利することは無い。あまりに救いの無いストーリーに欲求不満のまま劇場を出る。ロシアでは自国を貶めているという批判もあり、公開の是非に及ぶ議論があったそうだ。
作中ガブ呑みされるウオッカと共に記憶に残る作品ではある。

ここまで書いたところに、イタリア映画『ローマに消えた男』の評判が入ってきた。市議選騒ぎが収まり次第見に行くことにする。(2015.11.30)


お気狂っあん

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御存じ、駅前名物裸のおばさんの大首絵です。
髪は赤熊(しゃぐま)を入れてまとめ、きちっとしている。こめかみには頭痛持ちとかで梅肉をはりつけ、裸の肩には、按摩膏といふ和紙にまっ黒い油薬のぬられた、今に言う鎮痛消炎剤がはられていた。
又、この按摩膏は、パンパン・ガールが入れ墨をかくすために二の腕や太股にはっているのをしばしば見た。

いささか無責任な朝日の社説

11月19日、「赤字の鉄路 地域の知恵で足守れ」という聊か無責任な社説が掲載された。廃止が予想されるJR三江線を論じているのだが、高齢者に一般人と同じ土俵で相撲をとれと言っているようなもので少々酷である。
「地元はとにかく存続をと訴えるだけでなく、地域に必要な足は自分たちで守るという意識が大事である。」と宣うが、地域で守れなくなったからこそ問題が顕在化しているのではなかろうか。
人口減少、高齢化社会、極端な過疎化の進む地方において、鉄道事業はどうあるべきか、公共交通はどうあるべきか、国全体で考える必要のある重要課題である。

(石見川本駅に停車中の列車)

「三江線」も多分その昔、我田引鉄で建設された路線であろう。それが誰かは知らないが、1975年に全線が開業した頃には、既に車社会に入っていて、利用はもっぱら通学の高校生が主体になっていた。現在ではJR全路線中、輸送密度最下位の路線になっている。それを地域の知恵で守れ は酷というほかない。

JRの全線に乗っているので、むろんこの線にも乗った記録は残っている。しかし名所、旧跡、観光地といったものに縁遠い「三江線」には、車窓をしかと眺めた記憶がない。
だいたい「三江線」と聞いてどのあたりの線か見当のつく人は少ないだろう。であるから少しデータを提供し、いかに地域の知恵だけでは足を守ることが難しいかを証明する。


「三江線」は島根県江津市と広島県三次市を結ぶ路線延長108.1㎞、全線非電化のいわゆるローカル線である。中国地方最大の川「江の川」に沿って長い期間をかけて建設されたが、全通した頃にはモータリゼーションの時代に入っていて、利用は地域住民の移動需要のみであった。
現在の主な沿線自治体の人口は、
江津市 24,700人
三次市 54,700人
川本町  3,500人
三郷町  4,800人
邑南町 11,000人 とされ、おおよそ10万人。我が朝霞市一市に及ばない。
乗客がいないから運転本数が減る、本数が少ないから鉄道に乗らない。悪循環も重なって、現在江津→三次間を直通する列車は日に三本。それも6時発、15時発、16時30分発。これで3時間半かかる。これでは乗る人も稀になる。
これまでは沿線の代替輸送道路が未整備ということで廃止対象から除外されてきたが、最近では、江津道路(17.6㎞)、浜田自動車道(55.3㎞)、中国自動車道(37㎞)を経由すれば、江津から三次まではおよそ110㎞、一時間半で移動できるようになった。もはや鉄道に勝ちみはない。
残るは江の川に張り付く村々の移動需要であるが、現在の三江線ダイヤを見る限り、沿線住民はすでに鉄道を当てにしていない。

都市近郊の鉄道復権、とりわけ路面電車の見直しが公共交通の今後のあり方としてテーマに上っているが、あくまで大都市近郊の話しである。鉄道が地域のシンボルの時代は終わった。東日本大震災を機にBRT(バス)で復興の足掛かりとしている地方も多い。

鉄分が人一倍濃い人間が言うのも妙だが、赤錆びたレールが放置されたままの廃線跡を見るのは辛い。バスでもいい、予約制の乗合タクシーでもいい。要はその地方の現状にあった公共交通のあり方を自治体が先頭に立って考え、国はそれを支援すべし。
地方創生とか地方再生とか、うまい言葉やまやかしの日本語は要らない。われわれは今現に起きていることを共に考えるべきである。(2015.11.20)

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ぶらり三江線Map1
ぶらり三江線Map2
ぶらり三江線Map3

南栄パンパン小屋

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南栄パンパン小屋です。バーの裏手に簡単な、犬小屋の様な作りで、大工が一人で一日で建ててしまう程度のもの。
別にパンパン・ハウスと呼ばれる棟割の長屋もあちこちにあったが、それとは区別され“小屋”を当てていた。
女給として働く女は酔った米兵を相手にパンパンに変身
したのです。
(この小屋を作ったKさんの絵と、およその小屋の図は別に絵にしてあります。)
米兵もこれをHUTと呼んだ。Cabinよりも小さく粗末な掘立小屋が故だろう。

ANAエンジン整備工場見学会

頼れる大人の会の定例行事「大人の社会科見学」秋バージョンは『全日空原動機整備工場見学会』と銘打ち実施された。アレンジャーは元全日空商事の幹部U氏。
ANAやJALの格納庫内での機体整備見学会は以前から行われていて、予約が半年先まで埋まる人気メニューである。しかし知的好奇心のかたまり「頼れる大人」はそんな初心者クラスでは満足しない。機体などは見飽きている!エンジン整備の状況をこの目で見たい!
そしてそれを実現できる会員がいることが我々の自慢でもあり、何よりの強みである。先方からは一般立ち入り制限区域に入るので本人確認が必要となる。運転免許証かパスポートを持参せよとの達しがある。いよいよ普通の人は立ち入ることも、見ることも出来ないエリアに入れるのだと緊張の内にも、若干の優越感も感じられウキウキする。

11月9日、京急の終点羽田空港国内線ターミナル駅でANA社員の出迎えを受け、空港内の業務バスでANAエンジンシステムビルへ案内される。ビルの入り口には“ようこそANAEMBへ頼れる大人の会様”のボードが掲げられていて、面映ゆいまま会議室に通される。
挨拶もそこそこに、パワーポイントによるエンジン整備の工程が流れるように説明され、その後ヘルメットを着用し、いよいよエンジン整備工場へ入る。
天井の高い巨大な工場は極めて清潔で静粛、高さ5mにも及ぶ巨大なエンジンがひときわ目立つ。ものを造る製造工場ではないとはいえ、耳をつんざく機械音もコンプレッサー音も無く、もちろん火花も散っていない。工場内では意外にも大勢の人が働いているのだが、声高な会話や議論も吸収されてしまうのか、全く聞こえてこない。
一定の飛行時間を終えたGE製、P&W製、ロールスロイス製各社のエンジンが搬入されたのち、分解、洗浄、検査、修理、組み立て、試運転の一連の工程を通って航空機に再び装着される。厖大な工数と時間。機械化された無人の製造ラインとは全く違い、それぞれの作業工程に人が張り付く人間臭い職場である。
人間が仕事をしているという確からしさを実感する。航空機のエンジン部品は20,000点を超えるそうだが、その微細な一点一点がこういう形で整備されていることを知りえた貴重な体験となった。(2015.11.17)
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CampDrake North Gate

DSC00934ノースゲートの景です。S25頃ゲートは現スイミングスクールと役所駐車場出口の所にあって、MPは時々立ちましたが、日本人門番は常駐してい、日本人労務者に対しては、かなり厳しく当り、嫌がらせに近い“ペクション”頭の天辺から足の先までさぐりました。
何よりもしゃくにさわるのは、私達を「ポン人(日本人、ニッポン人の日を取った呼び方)」と呼んだことです。
まさか自らを米国人と思っていた訳ではありますまいが、いばりくさっていました。同級生にお父さんが門番の娘がいました。
右下の紫色の女は奥の黒人兵のオンリーさんです。奥の赤いワンピースの女は白人兵のオンリーさんとか。あるいは行きずりのパンパンか?
いずれにしても米兵と一緒だと日本人も門番に「あや」をつけられることなく入れたのです。
ちなみに日本人労務者(この門番も含む)は日本国内の民間の給与より高かった様で、「キャンプに勤めてる」はある種のステータスでした。

ペクション=inspection(点検、検査)のことと思われます。
子どもの世界にも上級生やガキ大将が「10円貸してくれ」で「持ってないよ」と返そものなら「“ペクション”してもし持ってたら取り上げるよ。それにウソの罰として一発パンチを入れるよ」なんていわれ、何度もおこずかいを取り上げられたのです。

能登から消えたもの

10月26日-28日、能登を慌ただしく往復した。とはいえ行きも帰りも北陸新幹線というような鉄道ファンの風上にもおけぬ行為はしていない。
墓参が年に一度の恒例行事になって、もう能登について書くべきことは少ないが、それでも今年特徴的だったのは、

奥能登から「塩」が消えた
揚げ浜塩田


朝ドラの人気をまざまざと見せつけられた。能登の土産を揚げ浜塩田の「塩」とやちや酒造の「前田利家公」に決めているが、肝心の「塩」が店頭から姿を消していた。
曽々木海岸の角花さんの塩田を何時ものように訪ねたが、“すまねエーな!今年売るものはもうないよ。作業は今月でおしめえにしたから、来年の夏までは出来ねえよ”とつれない返事。

角花さんは「まれ」で、塩田に海水を撒くシーンを役者に指導したこの道何十年のプロだが今は手持無沙汰。この人、来年の夏まで何をするのかしらと余計なことが気になる。
早朝車を飛ばしてやって来た、とても手ぶらでは帰れない。気は進まないが、最近海岸べりに出来た観光塩田みたいなところを覗くが、そこでさらに驚いた。明らかに観光客のお土産用とわかる塩の小袋が400円。しかもお一人様一袋までとある。
能登の海塩を期待する面々を思うと、最低でも10袋は欲しいところだが、店員は愛想なく、在庫がない一袋までと繰り返す。
舌打ちしながらもう一軒訪ねてみたが、ここでは一世帯一袋とさらに強気。まるで戦時中の配給を思わせる態度で腹立たしい。テレビの人気恐るべし。

道下村から人が消えた


限界集落を代表する我が道下村から更に人が消えた。8年前の能登半島地震で痛めつけられた村人も、すでに都会へ出ていた人たちも、過疎化の進む村にもう一度家を建て直すケースは稀である。倒壊した家は撤去され跡地は寒々とした更地になり、廃屋と化したまま手つかずの家も少なくない。黒々と瓦屋根が連なる奥能登特有の景観は消えてしまった。
門前町の人口は、昭和60年12,000人だったが、今年の5月時点では6,200人と30年間で半減した。村にただ一軒あった小さなスーパーも商売にならないと、一里離れた門前町の中心に引き上げた。高齢のお婆ちゃんたちは、買い物難民を余儀なくされている。能登から都会に出た人たちも、今では60歳、70歳の高齢世代に突入しており、かつて正月やお盆になると路上に溢れた横浜ナンバーや所沢ナンバーの車も最近めっきり減ったそうだ。
耕作地は荒れ果て、伐採されない山の木々は異様な姿を呈している。人間が1,000年かけて作り上げた村や町が大自然に還りつつある。もはや人口減少、少子高齢化社会の動きを誰も止められない。その典型を我が故郷、道下村に見る。

消えた北陸本線を三セクでたどる
北陸本線

今年3月、長野新幹線は北陸新幹線と名を変え、長野-金沢間に新幹線が走り始めた。その経済効果と金沢の街の賑わいは予想以上のようで誠に目出度いが、一方静かになるまで金沢へは行かないと決めた人も多い。来年の北海道新幹線開業で俄か人種がそちらに移動することを期待している人たちである。

さて鉄道はこうなった。
JRは新幹線に客を誘導するため、当然のように「北陸本線」を廃止した。しかし新潟、富山、石川3県を横断する北陸本線沿線住民の足を無くすわけにはいかない。JRのローカル線としてそのまま残すというテもあったろうが、JRと三県は従来の北陸本線を各県ごとにぶった切り、それぞれに第三セクターを設立した。
昨日まで一本の北陸本線だったものが3月14日からは、各県の県境までを第三セクター各社が運行する形になった。
独自の新造車両を開発した会社、JRから譲渡された車両の塗装色だけを変えた会社、内装を大幅に変えた会社とさまざまである。
発足後半年、日本海側の沿線人口は減ることがあっても増えることは無さそうである。鉄道会社として今すぐ黒字化を目指すことより、住民の利便性を確保し続けることが使命である。いずれ新駅設置とか、列車本数の増加などの要求が出てこようが、新会社はこれに応えうるか。経営合理化を理由に廃線の道を選んだ三セクも多い。そうならないことを祈る。

さて、「北朝霞→金沢」をJR各線と第三セクター各社を乗り継ぐことに要した時間は11時間、乗った列車は13本であった。

北朝霞―武蔵浦和 JR武蔵野線
武蔵浦和―大宮  JR埼京線
大宮―高崎    JR高崎線
高崎―横川    JR信越線
横川―軽井沢   JRバス
軽井沢―篠ノ井   しなの鉄道 しなの鉄道線
篠ノ井―長野   JR信越線
長野―妙高高原   しなの鉄道 北しなの線
妙高高原―直江津 えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン
直江津―市振    えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン
市振―倶利伽羅   あいの風とやま鉄道
倶利伽羅―金沢   IRいしかわ鉄道

・異色は直江津→泊のデイーゼル運転。電化区間に新造の気動車を投入している。乗務員は明確に答えなかったが、単行折り返し運転にはD車の運転コストの方が低いようだ。
・各社のテリトリ―は県境であるが、まさか河の中やトンネルの中では運転を引き継げない。そこで折り返し設備のある少し大きめの駅まで通しで走る。乗り継ぎ駅では旧来の長いホームの後部と前部を使って、別の会社の列車に乗り移る。
列車は担当区間を猛烈なスピードで走る。まるで次々とタスキを渡す駅伝走者のような感じである。

この日同好の鉄ちゃんには遭遇しなかった。この行程は彼らにもあまり魅力のあるものではなさそうである。  (2015.11.7)

小4、房総、竹岡へ臨海学校地元の子は眞っ黒。入道雲は眞っ白アメリカ兵は眞っ赤っか。

小四 昭和26年夏(渡辺市雄先生)房総半島・竹岡に臨海学校古い汚い旅館・ドラム缶の風呂、濃くて塩っ辛いおつけ。まっ黒な地元の子。ふんどしの漁師。まっ赤な米兵。まっ白な入道雲が思い出で、その他は全く記憶に無い。

この夏休み明け。学校で“くろん坊大会”があってぼくは海でかなり黒くなったが二等賞だった。一等賞は同級のK・K君で彼は海水浴に行かずとも、平素から地黒でその色のまま冬を迎へ、又夏を迎へた。KK君のお姉さんも色黒でナイロンの透明のストッキングが焦茶色にみえる程の肌でしたので、中学生は例によって彼女の色々をその焦茶色を口にして淫らに笑った。

左、海中に立つ笹は笹水神(ささみお・ささみよ)と呼ぶ。“これより先は海深し”の目印です。

観劇二作

映画なら玄人はだしを自負しているが芝居についてはまったくの素人。語るべきことがなかったが、ここにきて若手演劇人の二作品を観る機会に恵まれた。いずれも社会性に富み現代日本が抱える深刻な問題を告発する骨太な物語である。


そぞろの民 トラッシュマスターズ 中津留章仁作・演出 下北沢駅前劇場
安保関連法案が強行採決されたテレビ中継を見た直後、老人施設を抜けだしていたある平和学者が自宅で自殺した。
動機の究明と死に追いやった責任をめぐる三人の息子の争いは政治やジャーナリズムの問題、都会人の偽善性をあぶりだす。
そして老いがもたらす孤独と疎外感、老人の子供たちへの痛切な思いが次第に明らかにされる。歴史や政治を語るセリフはやや生硬で聞き飽きたフレーズも多いが、超高齢化社会が直面する家族問題、老人問題が容赦なく突き付けられて観客は身じろぎできない。
1973年生まれの中津留章仁は大震災発生後わずかひと月で『黄色い叫び』という原発を告発する青春群像劇を発表して観る者を驚かせた。この将来を嘱望される若手演出家は今回も100席とはいえ平日の小劇場を重たいテーマで満席にした。


地を渡る舟「1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち」てがみ座 長田育恵脚本・扇田拓也演出 東京芸術劇場シアターイースト
旅する巨人、民俗学者宮本常一と渋沢栄一の孫でパトロンの渋沢敬三の物語である。アチック・ミューゼアム(Attic Museum)とは渋沢邸の物置部屋の屋根裏に作った民俗学研究所のことで、動植物の標本や化石に溢れ、学問の支援者としての渋沢敬三のもう一つの顔を印すものである。
脚本の長田、演出の扇田、ともに1970年代後半の生まれの若手、彼らは言う。「震災直後、たとえ一瞬でも日本人の一人一人がこの国の未来を考えようとした。あれから三年、私たちはいま“新しい戦前”を生きている。常一が記録し続けた日本を私たちは確かに手渡されたはずなのに、いつしかそれを壊し葬ろうとしている。」止め処なく右傾化する日本…。若い演劇人の危機感に触れた。                    (2015.11.1)

ターザンごっこ

駅前広場では立木がなく叶わなかったが第二小学校裏の城山に遠征した時はターザンごっこした。あの頃は未だ城山にはいくつもの防空壕があり、雑木も繁るにまかせ山藤も木々にからみつき藤蔓もたれ下ってい、それにしがみついてブランコし、ターザン気分だった。ぼくは木登りが不得手だったが上手な奴が高みに縄を結び、蔓代りにすることが多かった。浅草で観たターザン映画の話を皆に聞かせた。ぼくの他に映画を観た奴は居ないので得意で話した。ジョニー・ワイズミュラーがターザン。モーリン・オサリヴァンという女優がジェーンを演じ、チータと呼ぶ猿が出て来た。ワニとも大蛇とも死闘をするターザンをぼくは中学生にまで聞かせた。中学生はジェーンに興味を持ちあれこれ聞かれたが、中学生の問には“わかんない”しか答えられなかった。だってターザンとジェーンは木の上のハンモックであれをするのか、とかそんなのばっかりだったのです。

正しい日本語を考える ー電車か列車か気動車かー

“そろそろ電車が来る時間だ”、“あの電車はかっこいい”…、テレビの旅番組などではお馴染の台詞である。
しかし「電車」じゃないのに、「電車」と呼ぶ神経には苛立つ。
こいつら馬鹿じゃないか!なんにも分かつちゃねいなと軽蔑しているが、天下の朝日にもそんな間違いが散見される。

鬼怒川の氾濫でひと月不通になっていた関東鉄道常総線が運行を再開したという10月10日の記事がある。それによると、写真下のキャプションには「決壊現場に近い南石下駅に一か月ぶりに電車が到着した」とあり、記事は「水海道駅で電車を待っていた高校一年生は…」とご丁寧にも間違いを繰り返している。
列車

鉄道を知る者は関東鉄道が首都近郊では珍しい全線非電化の気動車の走る路線であることを知っているし、鉄道ファンならずとも沿線住民は電車でないことは百も承知である。関東鉄道が設備投資をけちって気動車を走らせているのではない。茨城県石岡市に気象庁地磁気観測所があって、直流電流を流すと地磁気観測に影響を与える可能性があるため、半径30~40㎞以内では直流電化を採用できないのである。だから常磐線や水戸線、つくばエクスプレスもこの付近は交流電化になっている。関東鉄道も1980年代には急増する通勤需要に対処するため、電化を検討したが、前述の理由と複数の変電所建設に多額の投資が必要のため電化を断念している。

いっけん電車のように見える外観をしていても、架線は無いしパンタグラフもない。不勉強な若い記者連中に「電車」と書くのは間違いだと指摘しても、それなら何と書けばいいのかと質問されるに決まっている。現に朝日の紙面係りに電話で指摘したところ、「知りませんでした。それなら何と書くべきでしょうか」と案の定返答された。言うまでもなく「電車」とは電気を動力源として走行する鉄道車両のことであり、「気動車」とは主としてデイーゼルエンジンを動力源とした鉄道車両のことである。だから正確には「一か月ぶりに気動車が到着した」、「水海道駅で気動車を待っていた高校一年生は…」となるのだが、我々の日常感覚からは、正しいのだがどうもしっくりこない。
列車

さてどうするか。「列車」はどうだろうか。「列車」とは鉄道線路の上を列をなして走るから、こう称するのだが、一両編成であっても「単行列車」と呼ぶ慣わしになっている。ならば「一か月ぶりに列車が到着した」、「水海道駅で列車を待っていた高校一年生は…」となり、だいぶ日常感覚に近いものになる。
列車

テレビタレントにも“そろそろ列車が来る頃だ“あの列車はかっこいい”と言うように指導しようではないか。大きな間違いとは言わないが、上から下まで、聞き苦しい日本語の使い方が多すぎる。
この際、アドレナリンが出る、鳥肌が立つ、凄い絶景とか軽々しく叫ぶ風潮を止めさせようではないか。語彙の不足も際立つが、アドレナリンが出まくったり、鳥肌が年中立ちっぱなしだったり、日本全国が絶景だらけなどでは無いはずだ。日本語を正確に大事に使おう。(20015.10.15)

こくごの時間

昭和23年4月第二小学校一年生、こくごの時間です。
担任は袴のおばあさん先生、遠山とよ先生です。第一頁の読本はそのまま音楽の本にもなりました。オルガンは若い都筑三七子先生。眼鏡の似合う美人で、ぼくは声をかけられると顔が赤く成りました。「楽器のある人は持ってくること」で、ぼくは楽団南十字星出身のパンパン靖ちゃんにもらったハーモニカ、昌子ちゃんは木琴、雄ちゃんは太鼓、いっちゃんはおじいちゃんの尺八を持ってきました。

ぼくが入学した時点では、“ひらがな”になっていたのですが母はうかつにも“カタカナ”と思い込んでいて、ぼくはその時点でカタカナの読み書きは出来ていましたが、教科書を手にしてビックリ。母は一晩でぼくにひらがなをマスターさせたのです。今でも自身びっくりします。一晩で完璧に覚えたのです。私の頭が一番冴えていた時ですね。今でも時々ハーモニカを口にすると、ミソソソ ミソソ ミレド ミレドって吹いちゃいます。そして、ぼくの目は弱虫になって涙なんか落とすんです。

今日(平27)まで当時朝霞には第三小学校は無かったと思っていたが、2015年6月27日、図書館祭りで元第二小教諭斎藤先生より三小の存在を知らされた。確かに浜崎小学校と呼ばれていたが何故交流が無かったのか。第一、第二は絵画会、読書会、学芸会等の発表、交流があったが、浜崎小とは皆無であったことがその存在を知らなかったことに成るのかと思う。同級生も浜崎小(第三小)の存在を今日まで知らずにいた。

一億総活躍とはなにか

安倍政権の発する曖昧な言葉、インチキな言葉に国民は慣れっこになり反論する気概も失われつつある。
「積極的平和主義」の時もそうだったが、今度の「一億総活躍社会」にも上から目線の薄気味悪さと胡散臭さ、何とも言えない違和感で落ち着かない気分を抱く。
一億と聞いて我々世代が思い出すのは、終戦直後の一億総懺悔、1970年代の一億総中流、評論家大宅壮一は一億総白痴化という流行語を生み出しもした。
しかし怖いのは戦争標語。一億火の玉、一億玉砕、一億一心銃とる心、一億抜刀米英打倒なんてのもある。当時の日本の人口は7,000万人くらいだから、植民地にした台湾や朝鮮の人々も加えて、そんな掛け声をかけた。
いくら右寄り政権とはいえ、まさか戦争を始めるとは思わないが、汚染水が相次いで漏れている福島第一原を“完全にアンダーコントロールしている”と強弁する傲慢な体質の政権なのだから、ゆめゆめ監視を怠ってはならない。

いま我が国は政治家の劣化が激しく、国の10年先、20年先を考えるどころか、自分の次の選挙でいかに生き残るかで精いっぱいの浮草稼業のような人間ばかりである。
それをいいことにマスコミまで抑え込んだ安倍政権は曖昧な言葉とインチキな言葉を乱発する。身内からも何をする閣僚なのか分からないという声も上がった一億大臣は、どうやら首相の掲げる新三本の矢、つまり強い経済、子育て支援、安心に繋がる社会保障、それらを実現するための政策を纏めるらしい。
旧三本の矢の成果も分からないままに、合計六本の矢が放たれる。どこか空虚。非正規雇用の若者が続出し、六人に一人の子が貧困レベルで暮らしている、こんな社会にしておいて一方では屋上屋を重ねる省庁設置と会議の乱立、どこか狂っている。人文系を軽視して、モノを考える国民を減らそうとする安倍政権、まさに一億総白痴化政策の現代版に他ならない。(2015.10.17)