大島堅一氏講演「原発の費用と負担」

三山喬『さまよえる町』によれば、全町避難となった曝心地福島県大熊町で「原発」とは、今でも反原発の活動家しか使わないイデオロギー的な言葉なのだという。
普通の人は「発電所」か「東電」と言い、事故への憤りや不満を吐き出す時ですら、あの施設を「東電」、「発電所」と呼び、「原発」とは言わないそうだ。
1960年代後半、突如としてゴールドラッシュに見舞われた辺境の寒村では、原発への疑念や不安をあえて口にしないことが、そこで生きてゆくための処世術だった。

2月28日、『原発のコスト』で第12回大佛次郎論壇賞を受賞した大島堅一立命館大学教授の講演を放送大学文京センターで聴く。
演題は「原発の費用と負担」。
そこでは、原発のコストが高い安いより誰が払うのかが重要であることが指摘され、コストについては、立地対策費や事故対策費などの社会的コストを税金や電気料金に上乗せして国民に転嫁しているから、電力会社にとっては安いかもしれないが、国民には低廉とは言えないと、大変分かりやすいグラフ類を提示しながら、原発の不合理性を噛んで含めるように諄々と説く。

2Q==発電コスト、安全性、温暖化対策などすべての面において、原発を必要とする大義名分はほぼ消えた。日本政府はそれでも再稼働させようとする。なぜなのか。電力会社の倒産を恐れるのか、雇用の喪失が心配なのか、電力の安定供給に不安があるのか。
日本は倒産寸前の銀行を救い、JALを再建させ、夏の電力危機も乗り切ってきた。我々一般人には知りえない隠れた真の理由が存在するのであろうか。
こんな折、遠藤 典子氏の『原子力損害賠償制度の研究』が第14回大佛次郎論壇賞を受賞した。いまや損害賠償、除染、廃炉の総費用は15兆円をはるかに超える規模に拡大しているという。その巨額の損害賠償は誰がどのように負担すべきなのか。大部の研究書らしくとても買う気にはなれないが、問い合わせると図書館にはあるという。さわりだけでも読むことにする。 (2015.3.7)

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やっぱり本はノンフィクションだ!

文系学部不要論が喧しい。大学を職業訓練学校にせよ、教養はいらないとする説である。文系出身としては全く同意できない。
入学後、直ちに入社試験の準備に入るような現今の風潮を間違いと思っているので、この論争に加わると、つまるところ「大学は何のためにあるのか」という壮大なテーマに行きあたる。
実学とは一見無縁な文系の教養があってこそ、自分の頭で考える人間が育つと考えるのだが、諸兄の見解はいかがであろうか。

小説を読まなくなって久しい。漱石やトルストイは学生の頃卒業し、会社人間になってからは、高杉良や城山三郎の企業小説、和久竣三の法廷ものを読み漁った。だが高度成長、バブル崩壊の過程で、我が企業は幾度も会社存立の危機に見舞われた。たまたまトップの動向を間近に見る立場にいたので、そこで行われた対親会社、銀行、労働組合などとの再建を懸けた対立、駆け引き、妥協、役員間の暗闘、派閥争いなど。こっちの方が小説などよりよほど面白く、この段階でフィクションの世界から離れた。
しかしそうは言っても書評で絶賛され、広告で煽られると心の動く小説があることも否定できない。

その女アレックス  ピエール・ルメートル
このミステリーがすごい、30万部突破。-その女が世界を震撼させる、驚愕、逆転、慟哭、そして感動-
こうまで書かれると元ミステリーファンとしては無視できない。だが後味悪く好みのタイプではなかった。全編に不潔感が漂い、悪夢に悩まされることになった。

シャドー81  ルシアン・ネイハム
後味の悪さを消し去るため、爽快感抜群のこの航空サスペンスを再読する。しかし歳を取ったのだろう。40年前興奮したこの傑作にも感興は湧かなかった。

やはり本はノンフィクションに限る!

深海8000mに挑んだ町工場  山岡淳一郎
2009年1月、東大阪市の中小企業が開発に携わった人工衛星「まいど一号」が種子島宇宙センターからH2Aロケットで打ち上げられた。当日の夕刊は“町工場の希望、宇宙へ 東大阪「不景気吹き飛ばせ」”の見出しが躍った。
本書は、“大阪が空なら、東京は海だ。負けてられねえ!”と東京下町の町工場が先頭に立ち、産官学金、四位一体となって深海無人探査機「江戸っ子一号」を誕生させたものがたり。海洋立国日本の希望を背負って歩を進め始めた。

0(ゼロ)葬 島田裕巳
“葬式は要らない。墓も要らない。”と言い残した漱石の場合でも、青山会葬場で葬儀は行われ、遺灰は雑司ヶ谷霊園に収められている。しかし80代、90代で亡くなる人が多くなった今、本当に従来のような葬儀や立派な墓が必要なのであろうか。著者は宗教学者にして、葬送の自由をすすめる会の会長。
本書はマイ自然葬(散骨)と究極のゼロ葬(火葬場で遺骨を引き取らない葬り方)を説く。以前から関西の骨壺はなぜ小さいのかと思っていたが、関東の全骨収骨に対し、関西では部分収骨なのだそうだ。残りは火葬場で処分される。
読後感は非常にいい。これなら家族の負担がうんと軽くなる。同輩必読の書である。

さまよえる町 三山喬
『ホームレス歌人のいた冬』の三山喬が副題「フクシマ曝心地の心の声を追って」を出した。前著は朝日歌壇への投稿で反響を巻き起こしたホームレスを追って、横浜のドヤ街に通い続けた体験記であった。本書も3・11以降、朝日歌壇に投稿された福島の歌人の作品から出発している。

ふるさとは無言無人の町になり地の果てのごと遠くなりたり

あれから間もなく4年、自分の土地を追われ、避難先では意外にも白眼視に遭う。被災者への補償額や生活態度が生むやっかみ。確かに日中はパチンコ、夜は歓楽街、それも連日連夜タクシーを呼ぶ。心ない一部の人の行動が住民の心を裂く。著者は3年かけて心を閉ざした人たちと会話を続ける。大新聞やテレビでは報じられないフツーの人の心。読みやすいが中味は極めて重い。

東北朝市紀行 池田進一
輪島、高山、房総・勝浦が日本三大朝市なのだそうだ。本書はこれら観光化した朝市の対極にある「市日」と呼ばれ、決まった日付の日だけ立つ市を東北に20年間取材した写真集でもある。

“ばっちゃんおはようなんす”
“何かこうでぐだあ~”
“ここさ座ってください、話しっこしましょ”
おばあちゃんたち いつまでもお元気で!
(2015.3.6)

上野東京ライン

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3月14日のJRダイヤ改正時、首都圏に3.6㎞の新線が開業する。その名は「上野東京ライン」。上野駅を起点、終点としていた宇都宮線、高崎線、常磐線が東京駅、品川駅まで乗り入れ、さらに東海道線の小田原、熱海、沼津まで直通運転するというビッグ・ニュースである。
同日開業の北陸新幹線ばかりが目立つが、首都圏の住民にとっては開業の意義こそ違え、その利便性、快適性において待望の新線誕生である。
かつてのサラリーマン時代、通勤時の上野‐東京間の混雑率は全国鉄道路線の中で常にトップ、つまり最悪であった。東北方面や常磐方面から満員の中距離電車で到着した乗客は、上野‐東京間の山手線、京浜東北線の中で、もう一度エネルギーの消耗を余儀なくされた。新聞を読むどころか、腕の上げ下ろしもままならない通勤地獄。痴漢行為などはやりたくてもできないほどの混みようであった。
当時に比べると人口減少、車両の改良、新線の開業などもあって、混雑率は幾分低下傾向と聞くが、この新ラインの誕生はビジネス街に急ぐ者にとっては有難い。俺の在職中にこうなっていたらと悔やむOBを何人も思い出す。

2001年の「湘南新宿ライン」は首都圏交通網に選択肢を増やしたが、今回の「上野東京ライン」は利便性において、経済効果においてそれを遙かに凌ぐ。東京一極集中が取り沙汰される中、これは将に「東京駅一極集中」である。しかしこれまで耐えてきたサラリーマン、OLへのプレゼントと理解したい。

ところでこんなにいい話なら何故いままで進まなかったのか。随分昔のことになるが、東京駅発の準急「日光」という列車を見た事があるし、鉄道博物館で名古屋発八戸行(東海道、東北経由)という変なサボを実際目にしたこともある。しかしこれは特殊な例外か記憶違いで、何の疑いもなく東北方面へのターミナル駅は上野であると信じ込んでいた。だいたい頭端式(行き止まり)の上野駅の構造を見れば、上野‐東京間に国電以外の線路が無いのは明らかだし、東北新幹線や上越新幹線でさえ、当初の始発駅は大宮であった。後に上野まで来たが、まさか本気で東京駅まで引っ張ってくるとは思わなかった。
現にその後の、山形、秋田、長野の各新幹線開業に伴う用地問題を知る限り、上野‐東京間に在来線を敷く余地は全くなかった。
それを埼玉県の長年にわたる強い要望とJR東日本の熱意が総事業費400億円を投じて新幹線線路の上に「上野東京ライン」を実現させた。

さてJR東日本はどんな運行形態を考えているのか。発表されたダイヤを覗く。

・新前橋→熱海 217㎞ 4時間
・宇都宮→熱海 215㎞ 3時間50分
・小金井→伊東 4時間
・土浦→品川  1時間20分

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これら宇都宮線、高崎線、常磐線の大半の列車が上野駅、東京駅をともに通過駅にしてひたすら先を急ぐ。前橋から熱海まで各停で行く乗客が沢山いるとは思えないが、列車を車両基地や電車区で滞留させないためには線路の続く限り先へ行かせようとするのだろう。ことのついでに「各停最長列車」を調べてみた。
・岡山→新山口 316㎞ 5時間45分。これが最長、次いで、
・滝川→釧路 308㎞ 8時間

米原発姫路行きなど、JR西日本は特急券の要らない快速列車を頻発させているが、JR東日本もこの面で漸く追いついた。(2015.2.25)

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岩下守道氏死去

1月20日付けの訃報欄は83歳のその死を小さく伝えていた。大の野球好き、巨人狂いの家人ですら、その人の存在を記憶していない。巨人全盛時、川上哲治の控え一塁手で背番号15であった。
岩下は昭和24年、巨人の新人公募により投手として採用されたが、投手としては目が出なかった。しかし5年後の昭和29年には左投げ左打ちの一塁手として、二軍リーグのMVPに選ばれるまでに成長した。夢にまで見た一軍!
しかしその頃の巨人の一軍メンバーは次のようなものであった。
(中)与那嶺    これでは食い込む余地がない。
(二)千葉     まして一塁にいるのは打撃の神様・川上で
(右)南村     ある。昭和30年、川上はすでに35歳だった
(一)川上     が、若者岩下の登場に危機意識をもった。
(左)岩本     この年も首位打者と打点王の二冠を取って
(三)手塚     MVPに輝いた。
(遊)広岡     こうして岩下は試合後半の守備固めとたま
(捕)広田     に代打に出るだけのプレーヤーになった。
(投)―

しかし神様にも衰えは来る。かつての弾丸ライナーが影をひそめ、“テキサスの哲”と綽名されるほど打球は飛ばなくなった。昭和33年川上引退、いよいよ26歳岩下の正一塁手誕生とファンは思ったが、翌年早実から王貞治が入団してきた。

不運と言うか、悲劇と言うか、残酷と言うか、岩下にとっては巨大なライバル川上が去った瞬間、国鉄スワローズへのトレードが決まった。16番(川上)の後の一塁手は15番(岩下)と思っていたファンは、16−15=1(王)と言ったそうだ。
しかし岩下は常時出場の機会さえあれば一流のプレーヤーであった。昭和34年、2番左翼手として120安打、2割8分をたたき出し、打撃ベストテンの7位に入った。翌年も6番打者として111試合に出場している。彼はプロとして本物であることを証明した。
高校から大学の前半、試合開始前の後楽園球場でフリーバッテイングと守備練習をする岩下選手を何度も見た事がある。
こうして、球場で、舞台で、スクリーンで見た先輩、同輩たちが次々と旅立って逝く。(2015.2.25)

北陸新幹線開業

北陸新幹線金沢開業が間近に迫った。マスコミや観光業者はその効果を期待して大騒ぎしているが、ここは冷静に「鉄道」として押さえておくべき点と金沢の親戚筋や富山の友人から得ている開業前夜の現地情報をレポートする。

鉄道 「北陸新幹線」とは上信越・北陸を経由して、東京都と大阪府を結ぶ整備新幹線のことである。1997年に高崎駅から長野駅まで開業しており、この区間は長野新幹線と呼ばれている。
3月14日、長野駅-金沢駅間が新たに開業するが、高崎駅から金沢駅までの345.5㎞を「北陸新幹線」と呼称する。
新開業区間には飯山駅(JR飯山線)、上越妙高駅(JR信越線・脇野田駅を改称)、糸魚川駅、黒部宇奈月温泉駅(富山地鉄)、富山駅、新高岡駅(JR城端線新駅)が設置される。( )内は接続する鉄道路線。
そして2023年には金沢駅-敦賀駅間の開業が予定されている。
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富山側の情報 新駅が開業する黒部宇奈月温泉、新高岡、富山駅周辺は多くのイベントを計画し観光客誘致に懸命である。多分数年間は期待できるだろうが、名古屋経済圏にあった富山が、そのすべてを東京に吸い取られないか心配である。観光客を除けば、日帰り圏に入ることによるビジネスマンの宿泊減少も懸念される。朗報としては長野県からの富山大学への受験生が増えた事だ。

金沢側の情報 金沢開催の学会等の増加でホテル不足は深刻である。外国人旅行者も相当増えそうだが、兼六園、金沢城、ひがし茶屋街、武家屋敷など見るところは限られており、京都のように豊富な観光資源に恵まれているわけではない。山中、山代、片山津など加賀温泉のレデイー・カガと能登半島の魅力がどれだけ関東から客を吸引できるかが勝負であろう。
反面、東京はもとより軽井沢に行きやすくなったと歓迎の声がある。これまで片道4時間以上要していた「軽井沢」が2時間以内の距離になる。軽井沢に東京とは違う魅力を発見した北陸の若い子たちがリピーターになる可能性が十分ある。入超になるか出超になるか、金沢の変化を固唾を呑んで見守っている。

総括 「東北新幹線」が開業した頃、東北は仙台の「一人勝ち」と予想された。しかし30年後のいま、復興景気を除けば、ストロー現象による宿泊者減、一見賑わう商店街も東京資本のチェーン店ばかりで七夕祭りにも寄付しない、観光客の落とした金も翌日には東京の本店に送られる、つまり仙台らしさが無くなった。

さてそこで「北陸新幹線」。
金沢の「一人勝ち」と予想する論調は多いが、10年後、20年後、はたしてどうなっているであろうか。しかし俺はそのことを知れない。(2015.2.25)

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企業博物館めぐり

シニアの好奇心はとどまることを知らない。世界文化遺産に富岡製糸場の登録が決まるや、あの面白くもない操業停止状態のままの工場に人々が殺到する。上州の寒々として、トイレもない、駐車場もないところに人が溢れる。『手すき和紙』も美濃や埼玉県小川町で同じことが起きているのであろう。長崎の『軍艦島』も最近人気が出てきたようだが、大騒ぎする以前に見ている者はこうした「にわか人種」を内心軽蔑している。産業遺産を見て廻ることは結構なことだが、観光と紙一重のところは止めて、地味だが生活に密着している歴史や技術を学ぶべきである。
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東芝未来科学館 今年1月にオープンした企業博物館。前身は昭和2年のマツダ照明学校。最先端の未来技術に驚き、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機など東芝製1号機を見て、60年前はこういう時代だったよなと肯きながら往時を懐かしむ。
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横浜開港資料館 名建築と言われるものが横浜には多いが、これもそのひとつ。元英国総領事館で開港資料館としては1981年に開館された。横浜の歴史、文化を伝える25万点の資料が所蔵されている。横浜を描くアマチュア画家のスポットでもある。
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印刷博物館 トッパン印刷博物館と思っていたが、冠は無い。新しい印刷技術が日本に到来した最大目的は紙幣の製造。イタリア人エドアルド・キョッソーネが日本の紙幣印刷の基礎を築いた。お雇い外国人が二人いたことを知る。
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東京都水道歴史館 大江戸100万人の上水はいかにして確保されたのか。家康の開幕いらい今に至る東京の上水道建設の歴史。明治以降の近現代水道施設もさることながら、江戸時代の木樋や継手など当時の技術を実物で見る。非常に有益で面白い。
(2014.12.5

奥能登プラス4_終着駅

終着駅(Terminal)の語感は心淋しい。ターミナル・ケアという用語もある。しかしターミナル・ビルとなると主要駅の駅本屋を意味するし、空港では旅客機が発着する中心的機能を果たす建物のことになる。だがここでは能登周辺の元・現の寂しい三つの終着駅を取り上げる。


元JR能登線 のち三セクのと鉄道能登線「蛸島駅
奥能登の穴水から九十九湾沿いを走る風光明媚な路線(61.0㎞)であったが、車社会と過疎化には勝てず、全線開通(1964年)から24年後の1988年に廃止された。
その後、三セク化されて地域の足として頑張ったものの、17年後の2005年4月には遂に廃業、全線開通で奥能登が湧きかえってから、41年後にはひっそりと引退。我がサラリーマン人生にも似ていて感慨深い。
例によってアルバムを繰ると S61.8.14蛸島駅の入場券とJR廃止直前に乗りに行った合田の小父や又従姉妹たちの嬉しそうな写真がある。デイーゼルカ―のサボは金沢←→蛸島である。
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珠洲焼資料館を見学ののち、国道沿いにまだ残っているという蛸島駅の駅舎を探す。
えっこれが駅だったの? 駅名看板がかろうじて残っているのでそれと分かるが、通行する車からは壊れた倉庫跡としか見えない。10年間放置するとこうなってしまうのか。荒れ果て、壊れ果てた片面ホーム、レールや枕木も伸び放題の雑草の隙間から見える。なんとも悲しい光景である。日本全国どこでも同じだが、鉄道の長い線路跡は、サイクリングロードにでも変身させない限り使い道がない。犬釘を一本拾い記念に持ち帰る。

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JR氷見線「氷見駅
高岡-氷見(16.5㎞)の終着駅である。この路線は途中に雨晴海岸という義経伝説で有名な観光名所があって知る人は多い。
氷見の番屋街を訪ね、鰤の大きさと値段に驚き、越中名物大門素麺を求める。折角来たのだからと寿司屋で昼食をとるが、これがべらぼうに高い。ブリ一貫480円也、新鮮この上ないが、回転寿司の昼食で5,000円は痛い。

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JR城端線「城端駅
高岡-城端(29.9㎞)の終着駅である。チューリップで名高い砺波平野を縦貫する路線で、合掌造り集落白川郷の入口でもある。しかしこの駅から世界遺産を訪ねる人はいない。前出の氷見線と直通運転させてはどうだろうかと思うが、そんなことは一部の鉄道マニアが面白半分に唱えるだけで、閑散とした駅周辺は、いずれ廃線の運命を予感させる。
そんなことより目的は井波に行くことにあった。旅好きの友人たちからも、あそこは必見と言われていた。
井波彫刻の粋を集めたと言われる「瑞泉寺」と木彫りの里を主張する「その門前町・八日町通り」を見なくては。

北陸随一という浄土真宗瑞泉寺の大伽藍は、永平寺や総持寺に匹敵し見応え十分。そして山門から通りの両側に連なる100軒以上の彫刻工房、彫刻刀の店、工芸品の店が圧巻。
通りから覗きこむと工房では欄間、山車、寺社彫刻、置物、仏像、衝立などの作業に国宝級の職人がノミを揮っている。
さて置物のひとつでも買うかなと手を出したが、値段が一桁違っていた。(2014.12.1)

奥能登プラス4_十日町市博物館と小坂遺跡

十日町市博物館小坂遺跡
旧石器発掘捏造事件の主役藤村新一と、考古学界の非科学的体質に言及した『石の虚塔(上原善広著)』を読んだ。巻末の参考文献一覧に相沢忠洋氏の『岩宿の発見』をはじめ数多の論文、報告書が紹介される中に、『岡本勇 その人の学問』という追悼文集のあることを発見した。
へえー、この人こんな学績のある人だったのかと当時を思い返す。半世紀以上も前のことであるが、岡本さんは我々大学生の兄貴みたいな存在だった。酒癖が悪くて有名な中川茂夫教授の下で、コツコツ何かやっていた印象がある。
『石の虚塔』を読む限り、中川さんはあまり登場せず、岡本さんの名が再三出てくるから、業績としては彼が上だったのだろうと推測する。そんな先生がたの指導の下で、1959年(昭和34年)8月、十日町市教育委員会の主催で発掘調査が実施された。
趣味で入った大学のサークル活動は、「考古学」というより「土方作業」であったが、長期間の合宿生活は仲間を作り、酒を覚え、その後の人生に限りなく好影響を与えてくれた。
そしてのちに「小坂遺跡」と名付けられた55年前の発掘現場はいまどうなっているのだろうか。予てから気になり出かけてみたいと考えていた。
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JR十日町駅からほど近い十日町市博物館を訪ねる。文化財課主任の肩書の学芸員阿部敬氏が出土品の並ぶ館内を案内してくれる。国宝笹山遺跡出土品として、火焔型土器がドーンと陳列される脇に、申し訳けなさそうに我が小坂遺跡の出土品が数点並べられていた。
たしかあの時はリンゴ箱で25箱くらいを夏休みの校内に運び込み、連日水洗いと整理、復元に明け暮れたことを思い出す。
教育委員会が発行した文化財調査報告書「小坂遺跡」の数ページをコピーしてもらう。
これによると「中川が担当者になり、岡本および加藤が立教大学生を指導して発掘調査を実施した。(中略)発掘に、あとの長い間の遺物整理に協力された立教大学史学研究会の学生諸君に対して深甚の謝意を表する。」とあり、発掘参加者名が記載されている。一作業員に過ぎなかったとはいえ、自分の名前を学術報告書の中に発見することは嬉しいことだ。早逝した廿楽清君の名前も見える。

次いで報告書の地図を頼りに発掘現場を探しに出かける。
博物館員は鳩首会議を開いてくれたが、地図上に現場を特定できなかった。駅前で客待ち中の年輩のタクシー運転手に地図を示し、ここへ連れて行ってくれと頼む。運転手はあまり自信無さそうであったが、行ってみましょう、途中に公民館もあるから分かるかもしれないと車を発進させる。
信濃川を渡り、丘陵地を上り、ここら辺だがなという地点に達する。農作業中のお年寄りに尋ねてみる。“むかしこの辺りで学生がたくさん来て、発掘をやった記憶はありませんか”“ああそれならこの上の畑だ”。
意外にも簡単に55年前の現場が分かった。信濃川の河岸段丘の上260mと資料にあるが、背景の杉林に見覚えあるようにも思えるが定かでない。一帯は水田、畑になっていて、発掘現場の痕跡は留めない。
しかし長期間、宿舎に使わせてもらった鐙島小学校の廃校を見つけ、ここの体育館で寝起きし、地元婦人会の人たちに食事の面倒を見てもらったことを思いだす。作業終了の日、BC3世紀頃の集落址と炉を囲んで地元青年団の人たちと茶碗酒を酌み交わしたことが鮮やかに甦って来た。あのころの青年団も多分80歳台、さっきのお年寄りもその時のひとりであったかもしれない。

奥能登プラス4_赤字ローカル線

赤字ローカル線
金沢への往路飯山線、復路只見線を旅程に組み入れた。勿論既に乗っているのだが、それも遠い昔になった。久しぶりに乗りたい。

飯山線(越後川口-豊野 96.7㎞)
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直通する列車は日に一、二本。来春の北陸新幹線の開業でさらにどんな影響を受けるのか。
飯山線は大正5年、飯山鉄道により豊野側から線路が敷かれ、昭和4年全線開通、同19年国鉄が買収した。長野-新潟を結ぶ最短路線であるが、信濃川の蛇行に忠実に寄り添う線路はスピードを出せず、今でも96.7㎞を走るのに4時間以上を要している。

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キハ110系列車は小さな曲線と勾配の連続する線路を、キイキイ、チイチイとフランジ音を響かせながらノロノロ進む。速度計の針は25㎞~40㎞/Hを指したまま。飯田線ほどではないが、駅間距離も3㎞程と短く、豪雪期間ならともかく、特に見るべき景観もなく退屈極まりない。最近は何処にでも出没する鉄ちゃんもさすがにここでは見かけない。
と突然、巨大な構造物が目に飛び込んできた。北陸新幹線の「飯山駅」である。超過疎の村々を行くのんびりムード一転、東京のど真ん中に引き戻されたような違和感を覚える。前の座席に投げ出していた足を思わず引っ込め、居住まいを正さざるを得ない様な気分にさせられる。
赤錆びた非電化線路の上を跨ぐ新幹線の高架と駅舎の途方もない大きさ。数十年前、岩日線(現錦川鉄道)をやり、新岩国で山陽新幹線に乗り換えたときに感じた気分を思い出した。
北陸新幹線はこの先、信越本線の脇野田駅を「上越妙高」と駅名を変更し、直江津を無視して糸魚川に向かう。突如姿を現した要塞のような新幹線仕様の駅舎と、軒先に渋柿がぶら下がる農村風景、なにやら過去と未来が混在しているようでもある。

只見線(小出-会津若松 135.2㎞)
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只見線は紅葉の美しさと雪景色の見事さで常に鉄道路線の上位にランクされている。しかし2011年7月の新潟・福島豪雨災害により多くの橋梁、路盤が流され、只見-会津川口間27.6㎞はいまだに不通で、復旧にはこれから4年、85億円かかるとの試算もある。今この区間は代行バスで接続されている。
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周辺人口からすれば廃線になってもおかしくないのだが、鉄道に並行する国道は冬季通行止めになるため、新潟県の魚沼地区と福島県の只見地区を結ぶ唯一の交通手段として生き残っている。

小出駅を13時10分に発車したキハ40系列車は、標高760mの六十里峠に挑むためにエネルギーを温存するかのようにノロノロ進む。やがて晴れていた空があっという間に曇って、粉雪が舞い始め、本降りの雪となる。数日前から降っていたのであろう、雪下ろしをする農家も散見される。ここは日本有数の豪雪地帯なのだ。車窓の右に左に展開される雪山が美しい。やがて在来線では5番目の長さだという6,400mの六十里越トンネルに入る。
大白川-只見間の駅間距離は20.8㎞、山手線をゆうに半周する長さである。それを31分かけて走る。そして只見駅。慌ただしく代行バスに走り込む。
今夏乗った山陰本線の代行バスはJR中国が用意した立派なハイデッカーバスであったが、ここではどこかの福祉施設から借りてきたような20人乗りのマイクロバス。そんな侘しいバスに乗客は5人。一様に押し黙ったまま一時間後、会津川口駅に到着。
5分後に発車する会津若松行き列車に急き立てられる。駅周辺を撮ったり、見回す余裕もない。
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ここからは雪景色一転、山々にまだ紅葉が残る美しい奥会津の景観となった。もともと田子倉ダムなどを建設するために引かれた線路で、災害の危険とは隣り合わせだったのだ。
新潟側に比べるといくらか増えた乗客を乗せて、列車は17時20分会津若松駅着。135㎞4時間の旅であった。

奥能登プラス4_荒天の奥能登と金沢香林坊

深夜プラス1』(Midnight Plus One ギャビン・ライアル著)というミステリーの名作がある。これを読んだきっかけは題名が洒落ているから。
週報を書きはじめて17年、いつかこれをもじって、タイトルにしたいと考えていた。
能登には墓参に、観光に、親戚の法事に、と数えきれないほど足を運んでいて、美しい風景も、触れたい人情も、美味い魚や野菜についても書き尽してしまった。もう報告すべきことがない。
そこで題名でおやっと思わせ、気を惹こうとする最後の手段である。加えて旅の名人を自称し、駄文を披露するからには、単なる墓参報告で済ませたくない。ご先祖様には申し訳けないが、一工夫した旅行記としてお読みいただきたい。

今回の奥能登には朋友西山聖君が全日程同行してくれた。
昼は運転手兼観光ガイド、夜は呑み役に徹してくれて楽しい上に心強い。かつて北陸支店長を任じていた人物で、奥能登の地理や歴史につては、地元出身を名乗る自分よりも詳しいのだから嫌になる。
“こっちを廻った方が近い、美味いのはあの店、あそこの民宿の嫁は…”という具合である。先年の名画『最強のふたり』みたいで、足らずところを補い合いながらの二人旅となった。
彼の博識と陶芸に代表される趣味の良さ、それに美食家の面目がいかんなく発揮され、帰宅後家人は、“よくそんなに長く、男二人でいられたわね”と嫌味ともつかない感想を漏らしていたが、女には分からないのだ!
こうして11月11日、5日間の旅が始まった。

荒天の奥能登と金沢香林坊
行く季節にもよろうが、こんなに荒れた能登は久しぶりであった。日本海は轟々と吼えるし、輪島の朝市は早々に店仕舞いした。
こうなると目玉は曽々木海岸の「波の花」になる。もちろん知ってはいたが、こんな盛大に歓迎されたのは初めてである。
海水中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が岩にぶつかるたびに、空気を含んで白い泡状になる。その泡のことを「波の花」と言うのだそうだが、強い風に煽られて雪のように舞い海岸を覆う。能登の冬の風物詩と言われるものを、初めて本格的に見た。強風で開かない車のドアをやっとの思いで押し開け海岸に立つ。吹き飛ばされないように身体を支えながら、カメラを構えるのだが、黄色味をおびた泡が烈風に煽られ、全身にまとわりつく。
カメラもたっぷり塩分を浴びる。早々に車内に戻り、乾いたタオルで拭う。こんな天候にならないと現れないのなら、「波の花」見物は観光資源にはなり難いが、しかしいいものを見た。
その足で「揚げ浜塩田」に立ち寄り何時ものように「塩」を求めるが、五代目角花豊さんに元気がない。聞くと今年奥さんを亡くしたそうだ。強風吹きすさぶ日本海の古民家のような家でひとり冬を越す。最古の製塩法を守る人と言われるが、なにか悲しい。

Korinbo_Sekihi

金沢の繁華街、香林坊を訪ねるのも定番コースである。
今回は『日本の居酒屋文化』(マイク・モラスキー著)が褒めまくっている「いたる」で呑ろうと決めていた。けばけばしいネオンやいかがわしい看板、提灯とは無縁の横丁にあり、この店はなかなかにいい雰囲気を醸していた。これなら間違いあるまいと入りかけると、“ご予約のお客さまですか”と問われる。えっ予約が要るのと一瞬たじろぐ。

小料理、割烹を名乗るならともかく、居酒屋に予約はないよなと思うのだが、空席の目立つカウンターに入れてくれない。
こちらは一見の客、問答していても仕方ないので、じゃやっぱり何時もの「五郎八」にしようと向かうのだが、この日の金沢に何があるのか知らないが、知っている店はどこも満員。
結局はじめての店に入ったが、居心地の悪いまま、まずい酒と肴で二人とも不機嫌。“居酒屋なら予約など取らず、来る客を次々入れるべきだ。”と西山君はまだ怒っている。
兼六園の紅葉かアベノミクスか知らないが、繁華街に賑わいを取り戻したのは大いに結構だが、我々は面白くない。
こうした気分は三晩目の輪島「どんぶらこ」で解消するまで続いた。呑み屋の怨念は恐ろしい。
ここでは店主の心のこもった料理とうまい酒、女房のような存在という女将との会話も楽しく能登の良さを再確認した。
ただし酔った勢いで来年また来るなどと約束したのは何時ものことながら、軽はずみであった。

その後の福島原発行動隊

福島原発行動隊は2011・3・11事故発生のひと月後に発足した。「若ものの被曝を老人が肩代わりする」、つまり原発事故の収束作業に当たる若い世代の放射能被曝を軽減するため、被曝の影響が少ない高齢の退役技術者、技能者が過去の経験、能力を生かし、現場に赴いて作業することを目的にしている。
現在行動隊員700名、賛助会員700名が登録しており、自分は賛助会員の末席に加わっている。しかし残念ながら当局からお呼びはかからない。
そこで行動隊は脱原発派、推進派を問わず専ら「福島第一」の事故収束に向けて啓蒙活動を展開している。

hukushima

9月27日(土)早稲田キャンパス15号館でシンポジウム「福島原発の収束・廃炉を考える~私たち(特に年寄り)に何ができるか」が開催された。異色のパネリストが登場して興味深かった。

毎日新聞:岸井成格氏
翌朝のTV 番組で「福島の収束・廃炉について勉強し、その困難さを改めて思い知った」と述べた。著名なジャーナリストでさえ、この程度の認識レベルかと聊か驚く。

福一廃炉推進カンパニー社長:増田尚宏氏
事故発生当時は福島第二原発所長。勝俣、武黒、武藤ら東電元幹部の責任追及がなされる中で、「情の吉田、理の増田」と言われ、のちに「チーム増田」が福島第二原発を救ったとされるヒーロー増田氏、その人が登場した。質問も彼に集中したが、情報を隠す気は全く無さそうで、東電の立場を保ちつつも廃炉カンパニーの長としての実態と悩みを語る。発言に誠意が感じられ、いまこの時点でも防護服に身を包んで収束作業に当たっている7,000人ともいわれる作業者に感謝しなくてはいけないそんな気持ちにさせられた。

東北エンタープライズ会長:名嘉幸照
GE 出身の同氏が1980年に設立した原発の保守管理を請負う一次下請け企業の現会長。福一に係わり続けてきた技術者としての無念を語ったように聞こえた。

元政府事故調委員:吉岡斉
御用学者18年、その後ゼロを唱えると自ら語る。脱原発を進めるにしろ、原発を動かし続けるにせよ古くなった原発の廃炉は避けられない。

この日共通して指摘されたのは、
・過酷な作業現場で働いている人たちのプライドを支え、サポートすること、モチベーションの維持が重要であること。
・廃炉技術を確立して輸出されるべきであること。
・廃棄物こそイノベーション。後始末はものを作るより上位の概念であるべきこと。
・これらすべてが国のプロジェクトであるべきこと。
などであった。(2014.11.7)

小鷹信光×田口俊樹トークイベント

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の新訳が出たのを機に、代官山の蔦屋書店で新旧二人の翻訳者によるトークイベントがあった(10月3日19時)。蔦屋の「本屋」というより図書館かカフェのような造りにも驚いたが、金曜日の夕刻、こんなに大勢の若い男女が店内を埋めていることにもっと驚いた。東京の山の手には健全なサラリーマン、OL、学生がまだ沢山いるのだと妙に安心する。

目当てのトークイベントは期待に違わず面白かったが、旧知とはいえ、ここ数年お会いしていない小鷹さんがこちらを覚えてくれているかが心配でもあった。しかし案に相違して、“どこかで見た顔がいると思っていたよ”と終了後話し掛けてきた。
今は亡き須永氏の紹介により、図書館のような所沢のご自宅を訪ね所属するサークルの講師をお願いすること二度、三度。
紀伊国屋などでの講演会でもお目にかかったりして、サイン本も数冊所蔵している。ご自慢のペイパーバック類は早川に寄贈したそうだが、“まだまだ元気だよ”と笑顔の78歳。
名訳? それとも誤訳? 翻訳という仕事の難しさ、面白さを改めてたっぷり語ってくれた90分であった。

この日は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の新潮文庫新訳版6頁後ろから4行目の翻訳の比較をして締めくくった。

“Hokay、fillm up”
田口俊樹訳  あいよ、たらふくやりな
小鷹信光訳  ほいよ、満タンにしな
飯島正訳   よろしい。いくらでも食べなさい。
田中西二郎訳 ようがすよ。まあたっぷり詰め込みなさい
田中小実昌訳 ホーケー。腹いっぱい食べて
中田耕治訳  ま、いいやな。腹ごしらえをすることだ
池田真紀子訳 いいよ。食べな。         (2014.10.27)

音楽の秋

コンサートにもいろいろある。義理で行く、義務で行く、チケットを予約してその日を待つ、さまざまである。

女性合唱団・マロニエ定期演奏会 8月24日 小金井市民交流センター
メンバーの加齢に反比例するかのように、年々ハーモニーが向上する。夏休み後半の日曜日とあって、会場もかなりの入り。“いつまで続けられるだろうか”の声も聞いていたので、内緒で家人の兄弟を招く。
姉、兄、弟は妹の歌のレベルと衣装に吃驚仰天。まさか来ているとは知らない本人も唖然。演出成功、ただし終了後は大散財。

セッテンブリーニ2014 9月15日 大泉学園ゆめりあホール
曰く因縁を知らないが、桐朋の孫・芙由花がシューマンの「ことづて」とプッチーニの「私が街を歩けば」を熱唱するという。
舞台の袖から笑みを浮かべながらカツカツと出てきて一礼するポーズもサマになっている。へえー!あの娘が と成長ぶりに驚く。もっとも既に成人式を終え、間もなく教育実習の教壇に立つのだそうだ。板橋の西台中学で教生をやったのが、つい先だってのように思いだされる。あれから55年も経ったのだ。

学習院OB合唱団合同演奏会 9月28日 練馬文化センター
朋友のテナー根岸氏の所属する合唱団を聴く。さすが学習院OB、それらしき人相、風体、物腰の紳士、淑女で大ホールはほぼ満員。思わず口ずさむような曲は無いが、終了後を楽しみに約二時間拝聴する。

花岡詠二スイング・コンサート 10月15日 亀戸カメリアホール
聴衆の高齢化にあわせるようにスタンダードナンバーのオンパレード。外タレを含むベテラン奏者の中で、初参加の二井田ひとみ(武蔵野音大 26歳)が凄いトランペットを聴かせ、一心に注目を浴びる。
(2014.10.27)

正気か 成長戦略の目玉が賭博産業とは

安倍首相の唱える「美しい日本」と成長戦略の目玉「カジノ誘致」とはどう結びつくのか。日本には競馬、競輪、競艇、サッカーくじ、パチンコ、パチスロと、ギャンブル・賭事には事欠かず、世界の賭博機の実に三分の二が集中している。この上カジノまで必要なのか。
カジノは社会風俗を乱すとして禁じられている「賭博」の合法化だ。賭博には多くの敗者・犠牲者が出る。依存症となり、人生を棒に振る人も出るだろう。多くの人を不幸に陥れても、目先の利益に飛びつくのは、まとも政治とはいえまい。
「美しい日本」とは豊かな四季の景観の中、人情と思いやりを重んじ、少子高齢化社会でも多くの人が幸せを感じる国をつくることではないのか。外国人観光客を呼び込むのは、こうした「美しい日本」であるべきで、カジノでの観光誘致は論外だ。

「21世紀のあかり」を持ち出すまでもなく、日本人技術者には地球規模での省エネルギー、新エネルギー、環境破壊防止システム等を開発する知恵と技術があるはずだ。例えば原発の廃炉技術を確立すれば、有力な成長産業になりえよう。
一方で日本の大学の世界ランクは年々下落傾向で、理工系学生の減少も憂慮される。こうした抜本的課題を棚上げしたまま、カジノが雇用の拡大になる等と喧伝するのは、前途有為な若者に対する冒涜でしかない。            (2014.10.18)

*朝日新聞読者投稿欄「声」に投稿したが掲載されなかった。
3日後の同紙「オピニオン」面に思想家内田樹氏の『カジノで考える民主主義』が全頁で掲載された。
そこでは賭博のビジネス化、国民の不幸で受益、白昼堂々の無自覚が糾弾され、金より大切なものがある。それは民の安寧であることを飽きるほど言い続ける必要があると指摘していた。

富士見商店街(下)

畑は遊び場畑という畑は子供達の遊び場でした。所々に室(ムロ)と呼ばれる穴が掘られていて落ちてしまうことがありました。室の中は種芋やら麦わらが入っていてそうした訳が決まってでっかいガマガエルがいたんです。

室畑という畑は子供達の遊び場でした。所々に室(ムロ)と呼ばれる穴が掘られていて落ちてしまうことがありました。室の中は種芋やら麦わらが入っていてそうした訳が決まってでっかいガマガエルがいたんです。

コエダメまた畑には”コエダメ”と呼ぶのがあって大きな材角やらコンクリートで作られてたものが埋められ農家のおじさんが近所から集めた”オワイ”(くそ、小便)を入れて寝かせているのですが、時々遊びに夢中で落ちる子がいました。これは部屋代を浮かせるため麦畑へ米兵を連れ込んだパンパンの目の前でGIがたっぷりの”コエダメ”に落ちてしまったのです。現岡1丁目で学校帰りに目撃したものです。

コーモリ傘雨の日はゆううつです。傘が必ず盗れたのです。初めは黒いコーモリ傘で東京のおばあちゃんが、くれたもので大切にしてたもの。次からは安い唐傘という紙と竹で出来たもの。それは全て盗まれます。当時雨の日でも傘もなく通学の子も多かったので仕方ないです。業を煮やした母は家業のせんべい屋で客に貸し出す屋号入りの大きな番傘を持たせるのですが、それすら盗まれたのです。女の子は芋の葉を傘にしてます。下駄は歯の高い雨の日用のものです。

甘えっ子ただ雨の日の良いことは母の膝で絵本を読んでもらえることです。入学前から繰っていたもので、3年生になっても続いていました。ある時友達に見つかって”甘えっ子”が広められました。僕の好きなのは横山隆一の”ふくちゃん”田河水泡の”のらくろ”宮尾しげをの”日の丸旗之助””○□サン・ゝ助サン”です。

うんてい秋が来て運動会が近くなると体操時間はその練習に当てられます。女のかは黒いブルマー男の子はズボンを脱いだだけの普通のキャラコのパンツですが運動会の日は新しいパンツになりました。僕は運動が得意でしたが、ただひとつ”うんてい”というのが苦手です。上手に体をふって次に進むことが出来ませんでした。男の子は運動会でも裸足でした。せいぜい裸足足袋をはきますがすぐ破れ結局は裸足が一番丈夫なのです。ちなみに母は近所の女の子にブルマー製ってやっていましたがその型紙に”女子運動用黒布襞入裁着袴”とあります。

おびとき第二小学校に隣接する、岡氷川神社のおびとき(七五三)風景です。休み時間になるとぼく達は宮参りに来た人の先にかけ寄り赤飯、みかん、飴、まんじゅう等々配ってもらいました。米兵の服をまねた祝い着のこどももいます。中央の大樹はいちょうで子供が四、五人手をつないでやっとかかえられる程のものでした。夏はこの下で授業をすることもありました。教室は扇風機も無かったのです。

すずめ10円秋になると雀は大いに太るのです。それをこんな仕掛けでつかまえ。大人の酒の肴にしますがざるには入るのですが、いざ手を入れてつかまえる時に100%逃げられました。この雀を一羽いくらで買い集めるおぢさんがいたのです。確か10円とか20円だったと思います。一杯飲み屋には”すずめ焼き”といふものあって100円近い価だったようです。コッペパン1コ10円、納豆同じく10円の頃です。

富士山に届け冬が来て……冬休みになって、ぼく達は凧あげに興じます。竹を細かく割いて家族で作る人もありますが、僕は第二小前の駄菓子屋、文房具を商う「けんちゃん」「かくちゃん」でかいました。商店街の裏手の畑に出れば西南の方に富士山が見えいくつもの凧が富士山に届けとばかりに上がりました。パンパンも米兵も一緒に揚ました。この町のパンパンはぼく達とも顔見知りで誰一人パン助なぞと蔑む子なぞありません。「お姉さん」と呼びました。僕たちはお姉さんとも米兵とも仲良しでした。

ネット文化の翳

大災害となった木曽の御嶽山と東急・池上線の御嶽山駅の関連をネットで検索していたら、非常に不快なサイトを発見した。曰く『御嶽山で亡くなった人達の職業』。
匿名で攻撃できるネットという手段はいま問題になっているヘイトスピーチ(憎悪表現)を一段とたちの悪いものにしているようだが、ここに書かれているレベルの低い日本語はともかくとして、こんな遣り取りが日常的に交わされていることに呆れる。
高性能のPCを持ちながらも、その機能の1/10も使っていないと自認していて、大きなことは言えないが、ともかくこの種のサイトを今まで見たことがなかった。想像するに、薄暗いアパートの片隅で、ネチネチとこんな遣り取りをしている連中が大勢いると思うと情けない。
・山登りはブルジョアの趣味だって、はっきりわかったね。
・派遣や貧乏人が山登る理由、無いからね。
・普段からヘトヘトに働いていて、そんなに体力残ってないからな。
・他人の不幸にこの上ない喜びを感じるよ。



こんな遣り取りが延々と続く。こんなものに付き合っていると、こちらまで馬鹿になってしまいそうで、早々にPCを閉じる。

精神科医の片田珠美氏は指摘する。
『将来に希望が持てず、貧困の足音もひたひたと聞こえる。不安や閉塞感が広がり勝ち組への妬みはものすごい。成功して幸福そうな人が我慢ならないのだ。』
インターネット上には「売国奴」、「国賊」、「反日」などという言葉が飛び交い、週刊誌は売らんがために扇情的なタイトルと記事で偏った国家ナショナリズムを煽る。
本来は権力を監視するはずのメデイアも歴史に逆行する政府の動きを阻止できず、十分にその役割をはたしていない。我々はいまこそ冷静に、ことの本質を見極めた上で、世の中の動きを注視しなければならない。
(2014.10.10)

富士見商店街(中)

長靴は仲間の証広場に集まる子供達です。長靴を履いているのは中学生のガキ大将ですが、洟をたらしてるんです。長靴は仲間の証。ある種のファッションです。何となく小汚い服装ですがこの中に3人お姉さんが特定の米兵のオンリーさんの子がいます。分かりますか?少々さっぱりとしてるんですが。

変電所ここは変電所、屋上は僕達の遊び場でした。それに並んで駅の社宅が建ちます。桜も満開です。ここは駅にも近く草地で夜は真っ暗になるのでパンパンの仕事場に利用され、子供達が遊ぶ朝になると使わえれたコンドームがたくさん落ちていて子供達はそれを”風船あそび”といい、ふくらませて遊びました。誰も汚いととか思っていなかったんです。右手隅にある風呂桶は広沢の池にたむろするパンパンに盗まれる風呂桶です。それも我家のリヤカーに乗せてのこと。もちろん桶は彼女らの風呂になりリヤカーは売られてしまったのです。

うまとび男の子はうまけり、うまとびを遊びます。ぼくはこの遊びが嫌いです、前の人の股に頭をつっこみますが、そのお尻がほこり臭く中にはうんち臭い奴もいたんですから。

竹うま竹うまは誰もが自分で作りました。中学生位になると自分の背丈より高い馬を乗りまわしました。上手になると走ることも出来ます。大抵は裸足で乗り竹を足の親指と代二指でしっかり挟んでましたから可能なのです。

ミッちゃん女ターザンと呼ばれた高野のミッちゃんは男の子の遊びは何でもやりました。それがまた上手でメンコ、ビー玉、ベーごま、まで常に負けるぼくの代わりに仕返しといってガキ大将から取り返してくれました。ミッちゃんはぼくより4才上のお姉さんです。チャンバラも男の子に混じってとってもかっこよかったんです。

紙芝居の太鼓紙芝居の太鼓のおぢちゃん高野さんは女ターザンみっちゃんのお父さんです。だみ声の紙芝居で少女の声色をやるんですから子供達は大笑いです。他に二人くる紙芝居は水飴を買わない子等は”ダメ”といって見せてくれませんが高野さんは皆に、おいでおいで、してくれました。ちなみに水飴は平均5円で求めますが、中には2円の子もいますし、中学のガキ大将は10円20円と買いました。ぼくはいつも5円です。高野さんがやさしいのは自分も7人の子持ちだったからでしょうか。

マスコットボーイある日広場に私服の米兵につれられ米兵と全く同じ服装のマスコットボーイが”僕も仲間に入れておくれよ”と現れました。ぼく達は言葉づかいで東京の子とすぐわかります。僕達には”おくれ”なんて言葉はありません。”くんな”です。真っ白なTシャツに新しいジーンズ。スリッポンの赤い靴。胸には茶色い袋にクッキー、チョコ、ガムがつまっていて、ぼく達に分けてくれたんです。その日彼は夕方まで一緒にかけずりまわって…あとのことは忘れましたがこの子、戦争孤児でマスコットボーイとは男色米兵のおもちゃだったのです。この子の後のこと否として知れません。

交歓の場、稲荷広場稲荷広場は建つ町内会館は荒れ放題で夜はパンパンと米兵の交歓の場として利用されますが、昼間と何かの催し物がある時はぼく達のものです。これは初午の宵宮、青年団は酒盛りをし、中学生のガキ大将もまじってHな話(当時は助平な話という)をして笑いころげます。小学生のぼく達は町内会の用意したお菓子をいただいてとっとと追っ払われました。中学生の女子も参加しますが男たちにパンパンごっこを強いられ泣いて帰りました。中央におしりを半分出して立つのは”半ペタお冷”とよばれた乞食です。”半ぺた”は尻っぺた半分”お冷”はお冷ごはんでもいいからくんな、と家中を廻ることからです。

ランドマーク当時のランドマークは”火の見”と呼んだ櫓。その上を飛ぶ軽飛行機がビラをまいてます。ビラは駅前商店街の内、岡田屋雑貨店開業75週年記念感謝大廉売のくじは宣伝もの、町中の田畑に大量に撒かれ子供達、否、大人までもかけずりまわり拾い集めました。景品は何であったか記憶の外ですが「こんな芸当できるのはさすが岡田屋さんよ」としばらくは町中この話で持ちきりでした。

木曽御嶽山

御嶽山に登ろうとしたのは何時頃だったろう。アルバムのINDEXから年月を探り当て、当時の手帳を引っ張り出す。ありました!ありました! 1976年の7月30日から8月3日まで、御嶽山麓王滝口の民宿「住吉荘」に二泊、開田高原の「ロッジ開田」に一泊している。今から38年も前のことである。
三女奈津子はまだ二歳、そんな家族五人に、友人家族二世帯が加わり、総勢13名で一応山頂を目指した。
でも本気だったのだろうか。写真を見ても全員ハイキング程度の軽装で、誰ひとり登山の格好をしていない。
むろん、噴火の恐れのある火山であるといった知識を持ち合わせていなかった。実に無謀なことを考えたものだ。
写真を見ながら当時の記憶を辿る・・・。思い出したぞ! 目的は既にいない家人の両親が信仰した御嶽講の霊神碑を御参りすることにあった。神仏の世界に疎い自分は、家人に言われるがまま夏休み旅行の行程に御嶽山を組み込んだのだ。
Mount_Ontake_from_Tanohara_1997-06-01

「林道黒石線」という有料道路を走り、7号目の「田の原天然公園」(2,180m)に車を置いた。そこから山頂(3,067m)までは指呼の間に思えた。むずかる奈っちゃんを背負って、ここまで来たのだからと歩き出した。まだ若かった。
Kakumei_gyoja

ところがここは山岳信仰の山。深田久弥は『日本百名山』の中で、道が白く見えるくらい白衣装束の信者が続くと書いているが、将にその通り。今で言う高齢者集団―爺さん、婆さんが続々と狭い山道を下ってくる。山は上り優先だなどと喚きたいところだが、登山に趣味があるとは思えない人たちに、そんな言葉を投げつけるわけにも行かず、しばしばというか頻繁に立ち止まる。
標高差800mの上りの一本道、すれ違いのためにしょっちゅう立ち止まるのは辛い。さっぱりペースがつかめない。やっと8合目に達する頃は気温も下がり始め、ビーチが似合うこんな恰好では危険だ、引き返そうという常識も働き7合目の駐車場に下りた。天候が変われば、13人の命が危険に晒されたかもしれない。
Mount_Ontake_from_Kabutoiwa_(2014-10-04_s2)

今回の噴火による火山活動の歴史を見ると、3年後の1979年には大規模な水蒸気爆発があった。(2014.10.10)

富士見商店街(上)

富士見商店街昭和23-28年頃の朝霞駅前通り、富士見商店街の図です。これからの話しは赤く塗られている成田家、三角屋、稲荷広場、東武鉄道変電所とその近くの畑での子供の遊びと暮らしの話です。ぼくの小学生6年間のことです。

駄菓子屋の三角屋三角屋と呼んだ駄菓子屋です。昔(朝霞駅が出来た大正三年では赤ちょうちんの一杯飲み屋を営んでいた)は池田屋という屋号だったそうです。その名の通り三角の店で水菓子と駄菓子、パン程度の店で、常お婆さんが店番です。ぼく達は”野球は巨人、キャラメルは紅梅”というキャッチ

紅梅キャラメル
紅梅キャラメルです。メーカー品のキャラメルが20円ですが、コレは10円でぼく達はキャラメルはほとんど口にせず中に入っている野球カードが目当てで巨人選手を1チーム集めると色々な景品がもらえたのです。その送り先は東京都世田谷区松原町4の336紅梅製菓株式会社でこの時”御中”を付けることを母から教わったのです。 野球と言っても三角ベースで誰もがホームラン王、川上哲治選手の16番でした又バットも川上選手の赤バットをまねパンキで赤くしました。ある時仲間にしてくれと新顔が現れまして、ガキ大将が背番号を付けこいと命ずると彼は漢数字の十六で出てきました。「おばあちゃんが付けてくれた」とのこと、大笑いしました。ぼくは独り彼を「二八そば」と名したのです。

成田家の宴会三角屋と背中合わせの成田家ではほとんど毎晩宴会があり三味線や太鼓がきこえてきます。小鉢たたいて猥歌がなりたてます。芸者と呼ぶ女の人も夕方になると続々とつめかけドンチャンさわぎです。踊っているおじさんは三角屋の主でお酒大好きでちょっと顔知りが居れば席へ顔を出し踊るのですが、この後に酒が入ると全裸になり、手にした盆の上におちんちんをのせて芸者たちをキャアキャアいわせ悦に入るのです。又芸者といわれる女達はどれも無芸の枕芸者で客の求めで一人二人と別室に消えるのです・・・・・。

のぞきこの様子を近所の子供達は黒板塀の節穴からのぞきます。三角屋のおじさんのこの芸は誰もが知っています。いつしかおじさんんのおちんちんは2大根のみそづけみたい”の伝説が子供達の間に広まったのでした。

レストラン・ポニー三角屋の前にポニーに引かせる幌馬車が停まっています。コレは南栄にある”レストラン・ポニー”の客を送迎するもので、ぼく達も時々乗せていただきました。駅前通りをまっすぐ西に向い長峰ふとん店の角を左折し、営団をぬけ、川越街道に出て左折しサウスゲート前を通ってイタリアンレストランポニーへ到着です。ここの主人は同級生平山くんのお父さんです。この幌馬車は町内100円均一のタクシー代わりもしていました。客は無かったとのことですが、米兵は好んでハニーさんを抱いて乗り込んでいました。

平山君のお母さん父母会ですがどこもお父さんが来ることはなく、たいていのお母さんは真新しい割烹着で足元は下駄ですが、平山くんのお母さんは末広がりのきれいなワンピースに赤いハイヒール。それだけでも皆おったまげるのに網の付いたボネットまでかぶってたんです。誰かが言いました。「平山の母ちゃんはアメリカ人か?」あとで分かることですがお母さんは新宿文化服装学院の先生であり家では英会話や料理を教えてた人です。以降ぼく達は平山くんに対する目の方向が少し変わりました。おぼっちゃま扱いです。

馬車
馬車を使った運送業の馬方の仁平さんは学校帰りのぼく達を空っぽの帰り車にのせてくれました。平山君のポニーの幌馬車と違って汚いし臭いしだったけど子供達はこっちに軍配を上げました。 馬が歩きながらうんちをオトしますのを仁平さんが手づかみに拾いバケツに入れ持ち帰ります。畑の肥料にします。腰が90度までに折れちまったおばあちゃんが歩いてます。年寄りになると腰が曲がっちゃう人が多かったのです。ほとんど地面をなめているみたいな人もいたんです。若い時分からの重労働の結果と言われてました。

遊び場の駅前稲荷広場駅前稲荷広場は駅前富士見地区の子供達の唯一の遊び場です。ここにも米兵とパンパン、それに首輪のない犬がいつもいます。ビー玉、メンコ、べーごまは定番のあそび。赤ちゃんをおんぶした子守っ子やお手伝いさんも遊びに来ます。

俊平クンの野球

孫の成長を2006年11月と5年後の2011年11月にこのコラムで書いている。それから3年、総領孫芙由花を筆頭に七人の孫はみな順調に成長している。
孫の母親たる三人娘が等しく40歳を超える年齢になり、それも当たり前と言えば当たり前だが、特に中学二年生俊平クンの成長が著しい。
見るたびに背丈が伸びて、今では180㎝。声変わりした低音で“こんちわ”と言いながら首をすくめて入ってくる。つい先だってまでは横に並んで、背丈を競い合っていたが、最近ではもはや勝負は明白と並ぶ気配も見せない。
その俊平クンが少年野球を経て、今では中学校のピッチャーで三番バッターだという。どうせ軟式野球と思いつつも、その雄姿を見るべく所沢のグラウンドに出かけた。
両翼90m、センター100mの立派なグラウンドの中にひときわ目立つ長身の俊平クンがウオーミングアップをしている。へえーとこれだけで感心する。スパイクを履いた俊平投手はさらに大きく見え、投球フォームもきれいで落ち着き払っている。身体の大きさだけならTVで見る大リーグの投手にひけをとらないし、相手チームのヤジに怯むこともなく堂々としている。(爺バカの極み)
試合は投手のコントロールにやや難があり、捕手も弱肩だったため苦戦していたが、最後は見事逆転勝ち。応援に駆けつけている母親たちの歓声、嬌声が凄い。夕闇迫る頃には驚いたことに照明が灯きナイターになった。勝敗は別として、こんな施設でプレーできる中学生は幸せだ。自分にこんな経験はない。せいぜい思い出すのは、疎開から引き揚げた滝野川(北区)でオフクロ手縫いのグローブらしきものをはめ、焼け野原の片隅で町の子らと三角ベースの野球をやったことくらいである。
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母親美奈子は、こんなデカイのが土、日ウチでウロウロさては家族が迷惑。野球をやってくれて本当によかったと酷いことを言っているが、それでも俊平クンが四球を連発したり、打席に立つと心配で見ていられないらしく眼をつぶり顔を伏せている。
息子に対する母親ってこんなものなのかと、戦中戦後の厳しい時代、あまり母親の愛情を感じることなく育った世代としては少々怨めしくもある。(2014.10.9)