火事

昭和32年1月2日夜半。駅前富士見地区消防分団の火の見櫓の半鐘はスリバン*です。 続きを読む: 火事

広告

半鐘泥坊

毎朝うちの前を東ゲートへ向かうおおぜいの駐留軍労務者の中、一人目立つ日本人離れした目鼻立ちの綺麗な背高い若い女性がありました。
大きな米兵より、あたま一つ高いのだから六尺は優にあろうと噂されていました。
タイピストとのことですが駅前にたむろする、パンパンガールのお姉さんは、
「タイピスト?お体裁女め!あたいらと同じパン助のくせにさ。あたいらの目は節穴じゃねえんだよ」
と言うのでした。
確かにタイピスト、通訳、PXの事務員などと言いながらオンリーさんだったり、米兵の袖を引く女もいたのです。
我が家にいたオンリーのレイ子さんだってタイプの打てないタイピストでした。
この、のっぽのお姉さんを皆は半鐘泥坊と呼び、今でこそ180cmの女性は珍しくもないがぼくの子供の頃は振り返らずにはおれないほど珍しがったのです。
金ちゃんの紙芝居

えいりなはもの

裏庭にブドウ棚がありました。棚下は玄関脇を通って駅へ抜ける近道で、ぼくん家に来るお客さんは便利にし使いましたが、いつの間に公道と勘違いする人も現れ、僕たちが遊んでいると「こんなことでベーゴマなんかやってんじゃねーよ、邪魔だんべ!」と言って通る人まで出て、お父ちゃんは〈通り抜け禁止〉の張り紙を出したのですが、なんの効果もありませんでした。
ブドウは毎年良く実が成り、早く食べたいのですが熟れるのを待つのも楽しみで「あの房はおれの!」とガキ大将のKちゃんは勝ってにきめ、僕に向かって「オメエのケンリはユウコウだ」と、なんだかわからない事を言いながら僕には一番大きな房を割り当ててくれたのです。嬉しいような悲しいようなヘンテコな気分でした。
そのブドウが或る朝、全て消えてしまっていたのです。Kちゃんは僕がケチ心を起こしかくしたと思ったらしいのです。広澤観音堂のハニーさんが真夜中に米兵やらせた事と分かりました。ブドウの房は米兵は誰でもが持つ手のひらに収まるで鋭利な刃の飛び出しナイフで切り取られていたからです。しかし例によって米兵の絡む事全ては、うやむやに終わる時代、白状したハニーさんも何食わぬ顔で棚下を通って駅へ仕事探しに向います。
この秋、僕たちはひと粒のブドウも口にできませんでした。

外便所とおはぐろとんぼ

水谷村(現、富士見市水子)のおじいちゃん家は百姓で、野良に出てても地下足袋のまま用が足せるように、竹林を背にした外便所がありました。竹林の裏は柳瀬川が流れ、無数の真っ黒なおはぐろとんぼが蝶のようにヒラヒラ飛び回り、便所の中まて入ってきました。 続きを読む: 外便所とおはぐろとんぼ

寝小便と座敷わらし

僕は小四まで時々「ねしょんべん」をやらかしていました。お母ちゃんが人目に付かぬよう干してくれたので、隣で寝る弟にも、敷布団に描いた大世界地図も、友達にもばれる事はありません。こんな日は言われなくとも、すすんでお母ちゃんの手伝いをしたものでした。
続きを読む: 寝小便と座敷わらし

夕立ち

入谷の朝顔市が終り、浅草観音ほおずき市。四万六千日と続き東京のお盆様がきます。毎年春秋彼岸、お盆にはお母ちゃん手作りのおはぎ、ぼたもちを浅草のおばあちゃんの家へ届けるのが僕の役目でした。
黒人兵ト二ーがPXで買ってくれた本物のアメリカのブルージーンズとアメリカのズック靴で 続きを読む: 夕立ち

さんまたいむ

小学校一年生になった昭和23年(弟が生まれた五月頃)、アメリカが「さんまたいむ」というのをやれと言うので、時計の針を一時間進めました。それでどうなったかというと、僕には何も変わりはないのですが、学校が早く始まるのが嫌でした。何でこんなことするのか分からず
続きを読む: さんまたいむ

食い稼ぎ一家

お盆がくると、この一家は家中で母親の実家へ里帰りをしました。
一行八人は送り火がすむ迄の四五泊を上げ膳据え膳、洗濯迄もさせ実家のお嫁さんはてんてこ舞いです。
田舎のお盆は「朝饅頭、昼うどん、夜は五目で腹下し」などといわれるごちそうです。
爺ちゃんの口の悪い友達は「今年も食い稼ぎ一家が来たな」と笑いました。
世間は食糧難でも爺ちゃんちは百姓で、米も麦も野菜も不自由無く、しかもご飯はかまどで藁で炊く銀シャリ。
それに自家製の三年ものの鼈甲色した味噌漬けは僕も楽しみでした。
母はお嫁さんが大変だからと、爺ちゃんがいくらすすめても僕を泊まらせてくれませんでした。
そんな僕に爺ちゃんは腹巻きから引き出したでっかい、がま口から「あいつ等には言うんじゃねえど!」と、いつも百圓をくれました。
この一家は帰りに子供たちに米、麦、味噌、豆、夏野菜、などなど風呂敷包みを背負わせて帰るのが決まりでした。
爺ちゃんの娘さん一家のことです。僕の父はこの娘さんの弟です。子だくさんの叔母さんです。

真犯人は?

夏休みに入って何回目かのプールの日の夜、プールから見える小さな屋敷稲荷の祠が、ひっくり返され壊されたのです。
その犯人は同級生N.Y君という事でした。それはこの日、彼はプールを休み、夕方には祠の近くでうろちょろしてるのを見た、という子が現れただけの話です。
続きを読む: 真犯人は?

子供御輿

1953年(昭和28年)戦後初めての駅前富士見地区の夏祭り。
御輿も山車も無く浅草の御輿屋から借りることになりました。大人の神輿は賃料が高く、仕方なしに子供御輿一基を借り受けました。
今は女性も御輿に肩を入れますが、此の頃は男だけに限られていました。
男勝りの女ターザン・みちえちゃんですら担がせては貰えなかったのです。
いつの間にやら「せいや、せいや」がかけ声になっていますが、昔は「わっしょい」以外はありません。
ガキ大将を中心に子供たちは商店を巡り寄付を募ります。
店構えは立派でもびっくりする程の小額の店もあり、そんなところへは先棒の中学生が御輿を、うまく誘導し店内に突っ込み御輿を何回転かさせ、商品を蹴散らしました。大人の世話役連も口では「やめろ、やめんか!」を連発するものの子供御輿の好きにさせていました。
「景気をつけろ、塩まいておくれ!わっしょい、わっしょい!」僕も担ぎ棒につかまって店内のあれこれを、踏んずけたり蹴飛ばしたり…しちゃいました。

工作

夏休みに入ると2.3日で宿題帳「夏休みの友」を終わらせ、絵日記も嘘っぱちをせっせと描き、一週間もすると工作を残して宿題は片付けました。あとは絵日記の天気と気温の書き込みですが、5.6年生になると平気でデタラメを書いていたのです。1クラス45人分の絵日記を先生が1ページ1ページ確かめる事など決してない事を知っていたからです。
遊びに遊び、夏休みも終わり近くなり工作のモーターボートに取り掛りました。一進堂書店で馬糞紙と呼ぶ黄土色の5円の工作用ボール紙と10円の黄色いチューブのセメダインを買いました。馬糞紙は色付けしても綺麗な発色が叶わず、空いた菓子箱を利用しました。絵の具を厚くぬり、その上に防水にローソクを溶かして塗るのです。夏休みの宿題工作展でこのボートは銀賞を頂きましたが、同じようなボートを出したS君が去年に続き金賞でした。その違いはスクリューがあるか無いかです。「あいつ、兄ちゃんが手伝ったに決まってるぜ!」たしかに僕もスクリューに挑戦したのですが、手に負えませんでした。
ボートの名は黒人兵トニーのオンリーさんの名前を取り「ベリー号」です。僕はトニーとベリーさんが大好き!それに船には女の名がふさわしいと、トニーが教えてくれたからです。

おきどり君

敵のピッチャーは色白の背高のっぽで「女かよぉ」と誰かが言った程の長髪で、一投ごとに帽子を飛ばし、その都度鼻までも隠す前髪をすくいあげ、帽子をかぶり直すのを女子はウットリとした目で見ています。
「助平なやつだな」誰かが言う程、今迄に見たことも無い「かっこつけやろう」でした。
相手チームは引又の小学校チームです、どんないきさつで試合をすることになったか全く記憶にありません。
一行はオート三輪車三台に分乗してやってきました。
ぼくが試合に行く時は、どんなに遠くても歩いて行くので現地についたときはクタクタで、そのためとは言わないけれど(言ってます)連戦連敗だった。
ところがこの日、僕たちは大差で勝利したのです。というのはこの気取りやピッチャーと来たら投球ホームばかり気にして、あまりまともなボールが投げられずフォアボールの連続でした。
僕らは自作の丸太ン棒バットを担いでいればいいのでした。押し出しの連続です、それでもピッチャーは平気のへいざで投げつずけ全く動じません。
後で耳にしたことですが彼の家は川越までよそ様の土地を踏まずに行ける財産家の子供でした。
僕たちはユニホームもそろわぬ下駄履きの、布製ぼろぼろグローブでしたが何もかも完璧にそろった敵に勝利し気を良くしていました。
「またやろうぜ」気取り屋が言った時、誰かが言いました。「野球って恰好じゃねえよな」。
聞こえ無かったか彼は耳のあたりの長い髪を手の甲で後ろに跳ね上げ、オート三輪に乗せられ帰って行きました。
「なんだ、あいつら?」「わかんねー」彼らのチーム名も気取りやピッチャーの名も覚えていませんが、女子たちはしばらく「かっこ良かったね!」なんて話してました。昭和24年、ぼくが小学4年生の出来事です。

女学生M子

M子は中学に進むと同時に父母の一杯飲み屋を手伝い始め、三年生になった頃には看板娘になっていました。
取り立てて姿形が良い訳ではありません、酔客には愛嬌ある歯に衣を着せぬ言葉が好まれたらしく別の言い方をすれば、単なるスレッカラシだったということです。
この頃は中学を卒えると、家業の手伝いか町工場に働きに出ることが大半でしたが、M子は店が繁盛して景気も良かったのでしょうS女学校へ進みました。
ある日彼女は行方不明になりました。警察も新聞も誘拐事件と大騒ぎになり二週間後、町内根岸の農家U家の物置に男と隠れ住んでいるのを見つけられました。男は店の客の三十代のヤクザで、M子が計った狂言誘拐事件であったことが判明したのです。
警察に保護された時の彼女の言葉は「母だって遊んでいた、あたしがなぜ悪い!」に町は騒然でした。M子の母もこのヤクザとは親しい関係にあったことをM子は知っての事だったのでしょう。昭和25年の事です。

デンタカとポン中の竹

電気工事人タカちゃんがデンタカ、遊び人の竹ちやんはポン中の竹と呼ばれ、僕ん家にも出入りしてました。
二人は20代半ばで幼馴染み。デンタカは腕の良い電気工事人で、かなりいい給料はを取っているとの噂ですが、竹ちやんは根っからの怠け者の遊び人でした。
賭け事とポン引きで食べてますが、手にした金はヒロポンという覚醒剤に注ぎ込み、青白い顔に血走った目をしていました。
そしてヒロボンが切れると僕ん家のお風呂場に駆け込み、肘の辺りに生ゴムの紐を巻き、血管を浮きあがらせ自分で注射して「飯のかわりさ」と言ってました。
しかし、その飯代にもピーピーしていてデンタカにたかってました。デンタカも殆どアル中ですがいい男で、、、竹ちやんの金ずるでした。
赤提灯おかめはヤクザ、ポン引き、パンパン、不良少年の溜まり場で真面目な勤め人が暖簾をくぐることはありませんでした。

新聞配達

子供達に新聞配りが流行ったことがありました。きっかけは小3のM子ちゃん。
新聞配りで家計を助けている親孝行が評判になり、僕も、あたしも、褒められたいと「細野新聞専売所」に押しかけたのでした。
そんなわけで其れまでの子供達が配っていた5,60軒分を3,4人でわけあう事となったのですが、ひと月もすると1人やめ、2人やめしてM子ちゃんの他3人が残るだけになりました。
僕もその流れに流された1人で、早起きは辛いからと夕刊にしたのですが、半月とつづきませんでした。
犬が恐い、を理由にやめたんですが新聞屋のおじさんは「駄賃」だと30円をくれました。
そのお金はその足で紅梅キャラメルを買いにはしりました。
「野球は巨人、キャラメルは紅梅」だからです。

のぼり竹

校庭の西側の氷川神社の参道沿いにのぼり竹があって、皆は猿の如くスイスイ登って天辺に着くと、手足の力を抜きシューっと急降下します。
中には体を反転、頭を下にしてのサーカスまがいの急降下もいましたが、僕は雲梯と同じく不得手で裸足になって足指も使って登ることも教えてられたがだめで、とうとう一度も天辺に到達することは叶いませんでした。
僕たちはのぼり竹と呼んでましたが、正式にはハント棒(よじ登る)ということです。

三角ベースとあんぱん屋

三角ベースでも野球は野球。キャツチヤーの後ろにはちゃんとあんぱん屋が立っています。しかし自分より喧嘩の強い奴とか勉強のできる理屈っぽい奴には、誰が見ても真ん真ん中のストライクでも「ボール!」の判定でした。
僕はなんであんぱん屋なのかが分からなかった。僕ん家の家業、せんべい屋ではいけないのか?それが「アンパイア」と知ったのは黒人兵、チョコレートボーイのトニーとキャツチボールをした時、四年生になってすぐの頃。だったろうか?今考えりゃわかる事、パン屋やせんべい屋が審判員として立つ訳は無いもんね!
浅草の従兄から貰った本革のグローブはワセリンという油を塗り、大事にしていました。外に持ってでたその日に盗まれてしまいましたが、何故かお母ちゃんが型紙を写していてくれ、毛布やフエルトで試行錯誤で作ってくれました。本革のグローブのように、すっぽりと球は収まってくれず、キャツチした時のピシャ!もしくはパシッ!の音が無いのが不満でした。
「少年クラブ」付録のグローブやミットの型紙を持っていましたが、布製ではいくら綿をあんこに詰め込んでも無駄でした。
三角ベースは適当にあやしげな二等辺三角形を引いて始めますが、別にルールにはこだわりません。正式なルールを知る奴だっていませんから、見よう見まねです。あんぱん屋だってストライクとボールの判定があるだけですが、それでも結構楽しかったんです。
背番号16は読売巨人軍赤バットのホームラン王、川上哲治で誰もが背番号は16です。もちろん、僕もです。

マネキン人形、白日夢

志木駅から浦和へ向かう途上、新河岸川にかかる栄橋を渡り左に折れると水谷村水子のおぢいちゃん家への道。
左右は白鷺の舞う田んぼと溜め池のちらばる凸凹の砂利道です。
そこを300mほどいくとマネキン人形工場があり、くりくり頭の裸の女が何十人も並び、のっぺらぼうの顔を一斉に僕に向けたのです。そばには首の無い腕の外れた胴体が転がっていて、道との境に張られたネットの下から白い腕がぬっ!と飛び出している気色の悪さです。
(ここは、さんじょうめ、と呼ばれた現在の水谷東3丁目のモード工芸社でしょうか?)
加えて白昼なのに人通りもなく、僕は一人で怖くて顔を背け通り抜けようとしました。すると、「坊ちゃん、どこいくの?」「お汁粉飲んできなよ!」マネキン人形が話しかけてきたのです。恐怖のあまり夢中で逃げたのですが、野良犬が追いかけできます。僕と駆けっこでもしてるつもりなのか無我夢中で逃げて、おぢいちゃんの家に駆け込むと同時に失神したらしいのです。
気づいた僕の耳におぢいちゃんの声。「お化け、お化けって、トシヲは臆病者だからな」この晩、僕は熱を出しメメズを煎じ飲まされたのでした。

アメ車

駅前通りの大店岡田屋雑貨店の裏には「大林の広場」と呼ぶ大手建設会社、大林組の資材置き場がありました。
塀も柵も無く出入りは自由で草地のままなので、子供たちの格好の遊び場ばかりではなく、サーカスや大相撲が来たり、お祭りや盆踊りの会場にもなりました。
ここへ僕んちに居たオンリーの冴子さんの彼氏のニールさんは「アメ車」と呼ばれたアメリカのでっかい乗用車を駐めていました。
ある日「アメ車」が物色されました。工具まで使って部品を外され、外形だけ残してわずか二日間で全てを持ち去られました。中学生の不良グループの仕業とされましたが工具まで持ち出しての所業は大人としか思えません。
そしてニールさんの「アメ車」は火を放たれ黒こげになったのです。結局犯人はわかりませんでした。
僕たちにスイカ泥棒を押し付けようとしたのも2人組のおばさんでした。