竹林

通学路には竹林があり、真冬に雪を被った竹は、しなりにしなり
ボク達の頭すれすれまで来ると耐えきれず、大きな音を立てて弾けます。
同時に竹林の雪が一気に崩れ落ち、ボクの手を握っていた一年生は、ぶるぶる震えながら
泣き出します。本当は六年生のボクだって怖くてたまらないけど、
繋いだ小さな手をギュッと握りしめて踏ん張ります。
パァーン!今度はボクもオシッコをちびってしまいました。

金ちゃんの紙芝居

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女番長H子

H子は自称中学生、何時もセーラー服姿ですが学校へは行かず駅前やお稲荷さんの広場に居ます。
女学生や大人しそうな男の子を脅し金を巻き上げ、成増の太平洋高校へ進んだガキ大将のKちゃんと遊び歩いていた。
「あいつ等できてるぜ!」なんて言われてたのを僕は其の意味が分からずお母ちゃんに聞いたら「仲のいいこと」と。
しかし子供は決して口にしてはならぬと約束させられた。本当の意味がわかったのはしばらくしてKちゃんの子分の一人が女番長と出来損なって、Kちゃんにぶん殴られることがあってからです。
H子はけろっとしてそれをみてました。
ペクションはpeck-tionか?GIのスラングか、パングリッシュと言われたパンパン英語か?
僕たちは何か隠した物が無いかを、手で振れて探る行為を言っていたのですが。
H子はのちに街のやくざと関わり大事件を起こします。
昭和25年新聞は狂言誘拐事件として報じしばらく町中大騒ぎでした。
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ピンポン屋

駅前裏通りピンポン屋ができまして,物珍しさにいってみました。ラケットも球も遊技代に入っていて手ぶらで行って遊べるのですが初めてのこととてラケットの持ち方も分からぬまま,指導してくれる人とて無く適当に球をうつのだが相手に向かうこと無くネットをこすのでやっと。
相手も同様だからピンポンピンポンのやり取りとは行かず、お正月の羽根つき同様、球拾いに右往左往するだけで「やっぱし詰まんねえや,金,損しちゃった」てなわけで一度きりでやめてしまった。
遊技代一時間20円だと友が言っていたが,,,確かに子供にそれはきつい。それでも夜間は青年団男女やパンパンガールとアメリカ兵でにぎわっていたらしい。娯楽施設なぞ何も無かった時代です。金ちゃんの紙芝居

にいなめさい

11月23日新嘗祭は祭日で学校は休みですが、旭日旗と日章旗が揚げられた校門をくぐって校長先生のお話を聞きに行かねばなりません。
休みなのに登校したくはありませんが、帰りに紅白のおまんじゅうをもらえるのが楽しみでした。
おまんじゅうは膝折の老舗、喜楽屋のもので、ぼく達は帰りの道中、家に着く前に誰もが食べちゃいました。
「わあ、お母さんに見せてからじゃなきゃいけないんだよ」なんて言ってた女の子も、結局家には半紙の包み紙を持って帰っただけでした。
甘い物が少なく、手に入りにくかった時代です。
もちろん弟や妹に持って帰る、いい子もいましたよ。

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影ふみ

陽が西に傾き人の影が長くなると、アッチコッチから女の子の歓声とも悲鳴ともつかぬ声が起きました。
同じ人に三度影を踏まれると不幸に取り憑かれ、五度踏まれたら
もうお嫁さんには行けなくなると言われていましたから。
女の子の夢、と言えば十人が十人お嫁さんと答えていたのですから
必死の形相で逃げまくったのです。
「バカ!ヤメロー
ヤメロッテバ!
ゴメン!
ゴメンダヨ…
ゴメンナサーイ!」

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大道芸蛇一筆書き

昭和25年浅草観音歳の市。
どんぶり鉢の墨汁をたっぷり筆に湿し紙に落とした。
大筆を手首を小刻みにふるわせ右に左に移動させると、あら不思議生々しい鱗の大蛇が出現したのです。
蛇は水商売の守り神、それらしきちょいと婀娜な姐さんに良く売れていた。
一枚が500圓だったと記憶するが、かなりの値段です。
そいつを2枚も買う父は、子供心にもお調子者だと思った。
というのも隣に立った小粋な姐さんに、良いとこ見せたかったことが見え見えだったんですから。
この一筆書きの蛇を、来客に見せては得意顔で居たが、いつの間にか何処かに消えた。
後で判明するが、父が馴染みの飲み屋に運んだのでした。それもちゃんと掛け軸に仕立てさせてです。
お母ちゃんは無駄使いをなげきました。
或るとき習字の時間に僕はこの一筆蛇を試したのですが、なんとそれらしきが現れたのです。
そしてそれは表面のツルツルした紙程うまくいったのです。芸という程の物でも無かったみたいです。
蛇足ですが500圓はパンパンガール1時間の値です。ちなみにショートタイム30分300圓、オールナイト800圓〜1000圓、そんな時代でした。
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団子

面子をしている僕たちはさっきから醤油の焦げる匂いに気を取られ勝負に集中できないでいる。
おばさんが七輪で団子を焼いているのはY君ちの庭。
「Y、団子やけたで食いな!」Yはたんまをとって団子に食い付いた。
次に焼けるのは僕たちにくれる物と思って、もう面子はそっちのけで誰も団子のことしか頭に無い。
ところがつぎに焼けたのはおばさんが食っちまって、お盆にはちゃんと一緒に遊ぶ僕たちの分もあったのにサッサとかたずけられてしまった。
「なんだ!見せびらかしか」こんなとき僕のお母ちゃんは必ず皆にも分けてくれたし、
おやつが足りなくて皆に分けられない時は自分の子、つまり僕にだけ与えるようなケチはしなかった。
「みんなだってほしいに決まってる、お前だけ何て恥ずかしいこと、いけないこと!」と。
そして皆の分も或る時は等分に、僕にだけ多くくれることもなかったのです。
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清水岩鐵君

昭和26年梅雨、転校生は「シミヅガンテツ」と名乗った。
くにゃくにょした体つきで色白で、女の子と見紛ふやさしい顔の奴だ。
先生に言われ、学校やクラスのことを説明し、その日の内に仲良しになった。
ぼくは彼の姿形に似合わない名前「ガンテツ」とどう綴るか問うた。
彼は「岩と鉄だけど鉄は古い方のテツ」と答えた。“鐡”というムヅカシイ字を書いてくれた。
ますます顔に合わぬ名だと思ったが、彼の眉だけは太く濃く岩鐡にふさわしかった。
ある日「利ちゃん、きっとズラが似合うよ」と言われた。
「ズラって?」
「サムライのズラだよ」
「?」
そのまま、紫陽花にたかる拳大のでんでん虫取りに夢中になり、ぼくはズラを何やら理解出来ぬままにしてしまった。
夏休みが終わり二学期が始まっても、ガンテツは登校してこなかった。
先生は「ガンテツ君は東北の学校に行った。あの子は旅芝居一座の子で全国を歩いていて〜〜きっと可愛い子役だろうな」とおっしゃった。
それから秋が来て仙台の消印でガンテツから手紙がきた。
中には彼の町娘姿の白黒写真が入っていた。
母は「まあ、なんて可愛いい子」とおどろいて、返事してあげなさいと言ったが住所はなかった。
彼がぼくに「サムライのズラが似合う」と言った時、彼が芝居師の子で、子供役、少女、娘役者をしている、とは理解できなかった。
きっと彼は、ぼくにサムライのズラをのっけて何やらの役をさせたかったらしい。
それきりガンテツからの便りはない。手紙はアルバムに挟み大事にしてあったが、中三の冬、近所からのもらい火で我家が全焼した際に失ってしまった。
「利ちゃん ズラが似合うよ、きっと」ガンテツの女の子のような声を想い出すことができる。
そしてなぜか涙で耳が遠くなる。
ガンテツ君存命なれば七十と四歳。どこかの空の下、芝居をしているに違いない。
僕の目は色白の可憐な町娘を見ている。
想い出はなぜかきまっていつも悲しい。

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縛っとけ!

夕焼けの車窓には、お化け煙突が煙を上げている千住の東京電力火力発電所が写った。
四本の煙突は見る場所で三本になったり、二本に見えたり、太い一本に変わった。
「おしっこ~」Uちゃんの声。Uちゃんは授業中たびたび、お漏らしをした。
先生は「窓からしちゃいなさい!」で、Uちゃんはズボンとパンツを幼児のように、一緒に下げ窓外に腰を突き出した途端に放尿した。
だが風がしょんべんを押し返し、全開の窓を霧と成って襲った。
車窓から首を出していた子は、しょんべん霧にまみれ。
この日の為の新調の服を汚され、泣き出した女の子が思いがけない言葉をはいた。
「馬鹿!おったんちん!おチンチンの先っぽ縛っとけ!U坊の馬鹿ったれ!」

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とんこ節

ぼくは誕生会のお菓子を会費30円で手配する係です。
共栄商会(後の松葉屋)で一人20円で整えたが、情け無いくらいの少なさに母は、うちの売り物の九助(久助)割れ煎餅を加えてくれました。残り10円は勘さん八百屋で国光りんごを買いましだ。
みんなりんごは丸かじりで、ほとんどの子は歯ぐきから血が出てりんごは赤く染まりました。
お菓子は誰も手をつけず弟、妹に持ち帰ります。
会はいつも歌だったり、クイズだったりで面白くないですが、毎日、朝霞劇場の拡声器から流れ、いつの間にやら覚えてしまった「とんこ節」を誰かが歌った。

♪あなたに貰った帯留めの
達磨の模様がちょつときにかかる
さんざ遊んで転がしてあとであっさりすてるきか
ネエーとんことんこ♫

神楽坂何とかいう芸者が歌い、流行った歌でこどもが歌うものではない、と先生は渋い顔をなさった。
そう言えば大人は宴会でへんな踊りをして歌っていた。
三角屋の国さんは全裸でこの曲を踊り、芸者をキャーキヤー言わせてました。
「ばっかみてえ!」ぼくたちはおもいました。

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ハバ ハバ

アメちやんが良く口にした言葉だ。子供たちはそれが急げ、早く、とかの意味に使われることを感じ良く口にした。
そのうちハバハバがハロー、グットバイ、サンキューと同じように、ぼくたちの言葉になってしまった。
ホームに電車が入ってくると、
ハーイ! ハバハバ ハニー!
大声でハ二ーさんを呼ぶアメちゃんは、切符を買うでもなく柵を跨ぎ、ハニーさんを抱え上げ抱っこしたまま電車に乗りこんだ。
唐草風呂敷のおじさんは、ハニーさん相手の布団屋で大宮から毎日やって来る傷痍軍人です。
我が家の貸席の布団もこのおじさんから買ったものでした。
改札口上の大小の箱はなんなのか? 分からないのです。
どなたかお分かりでしたら教えてください。S24年頃
金ちゃんの紙芝居

ゴムとび

ゴムとびは女の子の遊びですが、このゴムが問題なのです。
wagomu.ping
これは輪ゴムをつないだ物で、輪ゴムは貴重で何度も繰り返し使い、弱って切れるまで大事にしたんです。
特にお母さんがたは手首にはめておき、いろいろ利用したんです。
中には指先に血が通わず、紫色になるほど欲張ってる、おばさんも珍しくありません。
さてこのゴム輪は市販品ではありません。
僕たちの遊び場の何処にでも落ちていた、米兵の使用済みサック(コンドーム)の口元のゴムでそ。
それを子供たちが風船遊びに使い、割れてしまった風船から外したものの利用で、子供は家に持って帰りお母さんにも上げます。
学校でも先生方もそれを承知で、ごく自然に生徒とゴムとびに興じました。
勿論お弁当を包んだ新聞を止めるのも、又何処の商店も買い物の包みをピチン!と音を立てて止め「はい、まいど!」

キティー台風

それまで発生順に1号、2号〜と呼ばれていた台風は、アメリカ軍が進駐してからはアメリカ女性の名が付けられる様に成りました。
昭和24年8月31日キティーというお転婆娘が関東地方を襲った。
黒目川は溢れ溝沼、田島、浜崎の田畑は水没し海のようでした。
東上線の土手を水に追われたアオダイショウがよじ上り、鉄橋の線路や枕木に絡み付きました。
ぞっとするような、鳥肌の立つ光景です。
そのままだと電車が滑り脱線転覆してしまうので、線路工夫は蛇をたたき落としたのです。
でもキティー台風一過、恐ろしい程の大群の赤とんぼも連れてきました。
ここは黒目川沿いの朝霞厚生病院と図書館別館の間の鉄橋です。
キティーの前、昭和22年9月14日にキャサリン台風が関東に襲来したということですが、僕の記憶にはありません。

アメリカ兵

GIはカーキのギャバジンの制服で僕たちがハロー帽と呼んだギャルソンキャツプで颯爽と現れた。
当時を語る人にその制服を黄色とよぶを聞くがkhakiとyellowはわけて欲しいもの、アメリカではカーキをきるというのは陸軍に入ると同義語ときく。
またGIのズボンの前あきはチャツクだったともあるが終戦と同時に朝霞に進駐した米兵のそれは日本とおなじにボタン留めでした。チャツクになったのはS25年朝鮮戦争勃発後の事です。
GIの首には玉鎖に銀色の軍隊認識票がさがっていて、それは安全剃刀の刃の形の軽金属の札でGIたちはdog-tag畜犬票と呼んでいて圧縮機で姓名、動員番号、部隊数字がうちだされ所属宗教の頭文字、新教 P、旧教Cも打ち出されています。
またネクタイは結び目の三角がきちとでるウインザーノットが決まりのようでした。GI刈りと呼んだ刈りあげのヘアースタイルに憧れ真似してみましたが日本人の巾着頭には不向きでうまく出来たと思っても大工さん刈り、職人刈りになってしまうのでした。
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石合戦

男の子の血のなかの闘争心が時々爆発し石合戦になって現れた。武者振いの一番緊張する遊びです。 小川をはさみ石ころを投げ合うのですが石以外はルール違反です。が、ぼくの頭を襲ったのは缶詰の空き缶、蓋の部分が頭に刺さり出血のおびただしさに餓鬼大将もアワワオロオロ、駆けつけたおかあちゃんは失神してしまったのです。ぼくは一人で朝霞病院へはしった。看護婦さんは「アメちやん(米兵)にやられたの!」を繰り返した。キヤンプのアメちやんは日本人にわけもなく暴力を振るうことが多かったからです。
傷は床屋で丸刈りにするたびに鏡に桃色の盛りあがりを見せました。このルール違反の缶を投げたのは院長の孫のUちやんだったこと、かなり後になって彼の告白によってわかりましたがUちゃんはきっと心苦しかったろうな。
その詫びだと彼は玉子丼をおごってくれた。変な話!
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ゆり根

校庭の外れはすぐ檜の植林になる。下草は綺麗に刈られ木々は枝を打たれ真っ直ぐに天をさしている。
ぼくはひとりユリ根を彫る。林に音はない。
ときどき
チョチョ
チッチッ
チョ
小鳥が話すのが聞こえるだけ。
もう20センチも掘ったのに、 ユリ根は姿を見セナイ。
ジジジャ
ガガジー
チャッチャ
小鳥が騒いで飛び立つと空気銃を肩にしたおじさんが大きなくさめをして通った。
コチッ!シャべルに当たったのは縄文土器の破片、縄文の昔の人もユリ根を掘ったのかな。
アーアーアー鴉が真っ赤な口を開け鳴いている。ユリ根はまだみえない。
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牛乳

膝折、と言っても緑ヶ丘に近い川越街道の旧道に牧場があり、そこは廣安舎となのる牛乳屋もやっていてぼくん家も毎朝牛乳が届けられた。
入学間もない頃学校近くの農家の暮らしが珍しく、級友の家を時どきのぞきにいった。馬、牛、豚、山羊、にわとり、鳩なんかが飼われていて牛馬は農作業に活躍してます。
「三時だよ」おばさんは乳房のパンパンに張った母さん牛から絞ったばかりの乳をぼくにもくれたのですが、コップを口にしたとたん吐気を覚えたのでした。でも我慢してゴックンとやったのですが帰り道、戻してしまいました。これが本当の牛乳だとすると配達されるのは牛のオッパイではないとおもった。絞りたてのあの生臭さと母牛の生暖かさが思い出され、しばらく牛乳が飲めませんでした。
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さつまだんご

さつまいもの粉を耳たぶほどのてざわりに捏ね、軽く握って蒸しあげたのを薩摩団子と言います。出来上がりは海鼠みたいな色艶で一つ一つに握った母の掌紋、指紋が現れています。それ故他所の人の作るそれは変に潔癖症で神経質なぼくは口に出来ず、嫌な子と言われたものです。おむすびも同じでした。
できたてのだんごはムッ!とする野鄙な日向臭さが難点でそれは豚小屋の甘い様な臭さに似ていますが、少し冷めると匂いは去り、艶が増して芋の甘みはますのですが花見砂糖とよぶうっすら赤い砂糖、きな粉、すりゴマ等をまぶして気の利いた小皿に黒文字でも添えれば上等のお菓子でした。でも時間と共に表面は乾き犬のウンチにしか見えなかったのですがぼくの好物でお母ちゃんもよく作ってくれました。

けの、さちんぼ

「チッキが着いてるから取って来てよ」友達Hくんのおじさんにいわれ、ぼくたち4人は駅に行った。りんご箱のそれは子供にはなんともならぬ重量、ぼくは家に走りリアカーを引き出し同級生昇ちゃんのお父さん駅長の斉藤さんにリアカーに乗せて貰った。
りんご箱には夏みかんがぎゅーずめだった。おばさんは4等分したみかんをくれたが口がひん曲がるほどの酸っぱいさ。ぼくんちでは砂糖とか膨らし粉と言った重曹をつけて食べた。それをつけると口の中がシュワーとして酸味が和らいだのですがHくん家は砂糖も重曹も出してくれなかった。
帰りに、お駄賃に2つ位はくれると思っていたのに、、、帰り道誰からともなくHの家って「けの、さちんぼ」が口をついた。
チッキ
汽車で発行する預け荷物の引換券
のさ言葉
S25頃子供達に流行った語句間に「のさ」を入れた言葉
なのさつみかん(なつみかん)
とのさもだのさち(ともだぢ)
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