狐のえりまき 

狐、ハニーさんの集まり、白百合会をまとめるK姉妹は上等な厚手のオーバーコートに狐のえりまきを見せびらかしています。どちらも高価で駅前広場にたむろすハニーさん達には欲しくとも手がでません。狐のえりまきはこの辺では狸ズラの金持ちのざあます夫人か闇やの嬶がこれみよがしに巻いていたのです。白百合会会員の子分から巻き揚げた上納金でK姉妹はいい暮らしでした。
ポン引きのA.ジョージさんは神風特攻隊の生き残り、という人で長身の美男。妹は駅前浅川タバコ屋の前で米兵に射殺されたハニーさんです。ジョージさんも白と青のだんだらのえりまきをしていますが、米國大学カラーのシックスフィートという長いもので「アメ公から巻き揚げたもの」だそうです。ジョージさんは米兵を屁とも思っていません。懐には常に匕首を忍ばせ「わたくしは一度死んだ身、恐ろしいものなぞございません!」が口癖でした。

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外は雪です

大角豆(ささげ)見たような小顔のムサシヤ食堂のおばちゃんは黒人兵ト二ーのオンリーさんベリー嬢に明治の娘時代、在所の信州にあった時の糸繰り工女の辛く哀しい暮らしを聞かせています、、、、その話にベリーさんは泣いています。おばちゃんのちっちゃな手が赤ちゃん見たく、桃いろで艶つやしてるのを問うたが話の始まりです。湯に浸った繭から生糸を手繰り続けるうちに「その成分が肌に優しく作用したのかもしんないやね」だそうですが本当のことはわからないとも。
  弟は木琴に飽き、浅草のおばあちゃんが雷門右手の玩具屋から送って寄越した最新の発条仕掛の自動車を畳が擦り切れるもかまわずウイーン、ウワーン言わせてます。
  僕は炬燵でト二ーからポーカーゲームの手ほどきを受けています。ト二ーが最強の手だといったロイヤル ストレート フラッシュばかりを狙うので「ヨクバリ  シッパイスルヨ!」と笑われた。「がっつく乞食は貰いが少ないってこと?」って聞いたら「ワカンナイヨー!」だって。ポーカーフェイス、のなんたるかもこの時教えられましたが、僕はすぐ顔に出してしまう気質でとてもうすら惚けた顔なぞ出来やしません。 
  多くの米兵がそうであるようにト二ーもまた真冬でもTシヤツ一枚で寒がりません。後で知る事ですが、この頃日本人の一日の摂取カロリーが2000キロカロリー前後だったにアメちゃんは4000〜5000キロカロリーを毎日摂っていたと言う事です。寒い訳がありません。 
外は牡丹雪です。

かどまつ

毎年グリスマスが来ると土建屋や鳶職を名乗りHというヤクザ一家が、否応なしに駅前通りから裏通りのしもた屋まで一軒のこらず、かどまつを飾りたてにきました。「うちは要りません」などとは後の仕返しが恐くて言えたものではありません。
初めのうちは竹も子供たちの竹馬や物干し竿になるほどしっかりとしたものでしたが、だんだんと細くなり何の役にも立たない竹に変わってしまったのです。それても値段は毎年上げられ、昭和28年には一対千円になってしまいました。
七草が過ぎるとわざわざどんぶり股引姿に印半纏の下っ端ヤクザが集金に来ましたが、領収書なんて出ようはずはありません。ヤクザ丸儲けの図式です。
商店街は七草頃まではお正月休みでしたが、そのほかは年中休む事無く、朝は開店の早さを競い、店前を掃き清め、水をうって客を迎え、夜は遅くまで暖簾を出していたのです。さもないと「怠け者あきんど」と笑われ、商いにおおいに影響したのでした。

かすみ網

全校生総出でイナゴ取りをした、城山の南面に稲刈りが終わった田んぼは放ったらかしにされます。
秋が深まると田土は校庭のようにカラカラに乾き土埃も立たず裸足にも優しく、キャツチボール、相撲、馬蹴りと格好の遊び場になりました。 続きを読む: かすみ網

ABA.あば

僕の通う第二小学校の隣は氏神様岡の氷川神社で、僕たち四人が手を繋いでやっと抱えられる太さのイチヨウの古木がありました。一年生の夏休み、六年生が子供会を開いてくれましたのがこの木陰でそのリーダーが、いま(平成30) 根岸の西友前でインテリアのお店を出している内田さんでその妹のいつ子さんは僕とは同級生、二人のおじいちゃんは二小のいつも二コニコ優しいこずかいさんの内田七之助さんです。
秋になるとイチヨウの黄葉が境内を厚く埋め、裸足でその上を歩く気持ち良さと言ったらありません。男木でしたかギンナンを付ける事は無かったようです。
ここにも時どきアメリカ兵の姿が見られまして、僕たちが「あばよ」と手を振ると兵隊は「バイバイ」と掌を握ったり開いたり、赤ちゃんみたくかえしてくれました。ところで「あば」ってどこから生まれた言葉でしようね。僕は「さよなら」のつもりで口にしてましたが…今は全く耳にすることはありません。今でも使っている方がおられましようか?

爺さんヒイラギ

町民体育大会の景気付けに打ち上げられ花火の黒い煙からうまれる落下傘をおっています。
溝沼の田畑の中に落ちるとおもわれましたが落下傘は風に乗り、東上線を越え、西洋館の椎の木の梢をかすめ僕たちの第二小学校に向かっています。僕は畑を横ぎり、他所んちの庭を抜け、踏切を渡りながら落下傘を追います。息はきれ、下駄の鼻緒が親指と人指し指の間を食いつきます。「ここまで来たんだ、諦められるかい」僕は自分に言い聞かせてます。と、落下傘は飯倉酸素屋の辺りで急降下しすぐ側のお稲荷さんの、古いヒイラギの天辺に下りたのでした。
ヒイラギ、節分に鰯の頭を付けて門戸に挿し悪鬼を払うに用いる其れですが、ここのには葉に鋭い棘となった切れ込みがなく楕円形の葉でとてもヒイラギとは思えないものです。なんでもこの木は歳寄ると葉から棘が消え、樹高も3メートル程て止まり、優しい爺さんになってしまうそうです。この木はこのお稲荷さんの隣でどれだけ生きてきたのでしよう?でも心のうちには鋭い棘を持っているの違いありません。だってヒコバエはどれも青く鋭い棘を持って生まれてくるのですから。
え?落下傘…諦めました!とても手は届きませんし、木によじ登るわけにもいきません。御神木とされている木なんですから。

ジンタンボ

それまでカシ、クヌギ、シイ、コナラ等の実をひっくるめて「ドングリ」と呼んでいましたが第二小学校入学と同時に  「ジンタンボ」と呼ぶことも知りました。
三年生の秋、全校生にそのジンタンボ拾いが課せられ、講堂に集められたそれは小山を成しました。どこからか来たのかオート三輪車のおじさんが何度も往復して買い取って行ったのですが、これは粉にされパンになるのだと聞きました。お母ちゃんは家畜の餌じゃないの?と言ってましたが本当のところは分からずじまいでした。それにしても、駅前通りの埼玉銀行のあとに開店した大きな「文化パン店」で買ってるコッペパンがジンタンボで出来てるとは信じられないことでした。因みにこの頃、何にでもやたらと「文化」を被せる事が流行りました。大きくは、「文化住宅」から小さくは「文化楊枝」迄。鍋、カマ、コンロ、練炭…面白いのは鯖にまで「文化鯖」もしくは「鯖の文化干し」とうたっていて、生活の中のあらゆるものに「文化」が付けられていたのです。同級生H君のお母さんは新宿の大きな洋裁学校、文化服装学院の先生でした。そう!社会科でならいました。日本も文化国家を目指していたのです。

ところで同級生のKちゃんはアンペラ袋(筵で出来た袋)三袋も拾い集め、リアカーで運び込み、全校一番でしたが、僕はたった御飯茶碗に一杯程で「オメエ、たった、こんだけ?」と笑われました。だってKちゃん家は大きな屋敷林に囲まれた農家でしたが、僕は放課後、西洋館に忍び、屋敷林のシイノミを拾う他は無かったんですもの。駅前通りの子は誰もがそうだったんです。
左下でしょぼくれているのは僕です。
「たったこんだけ?」に傷ついちゃったんです。

標札ドロボウ

昭和26年(1951)、僕は小学4年生です。秋の運動会のころ、町内あちこちの標札が頻繁に消えて無くなったのです。そして何よりびっくりしたのは僕たち悪ガキ共の仕業説が流れ、駅前派出所のお巡りさんは僕たちを一人一人別個に呼び付けては脅し半分に尋問を始めたのですが、僕たちでは無いのですから知らないものは知りません。 続きを読む: 標札ドロボウ

けちべえ・吝兵衛

屋敷林の椎木や樫の風除け大樹の外側に柿の木を植えまわした大きな農家が有ります。
柿の実がうっすら色付き始める運動会の頃になると、僕たちは今日か明日かと食べ頃を狙いました。
ここのおじさんは「けちべえ」と呼ばれているだけあって、ただの一果もくれる事はありませんでした。そこで僕たちも野鳥もけちべえ一家の目を盗み失敬に行くのですが、見つかったら最後、折角苦労して手にしたそれは取り上げられ、おまけに学校にまで「かきどろぼう」と通報され、さんざんの目にあうのでした。
野鳥だってウカウカして居れません。おじさんは空気銃をぶっぱなし運のない奴は即死でした。(この頃、大抵の農家は空気銃を持っていました。弾は駅前通りの高野金物店で何百発単位の箱入りで売られていました。)ある日、戯れか故意か僕たちに向けた空気銃は、しんがりを逃げていた餓鬼大将の弟の尻を傷つけてしまったのです。その晩怒った大将はけちべえを呼び出し「半殺し」の目に合わせたのでした。
が、何故かけちべえは警察にも届けず、包帯ぐるぐる巻きで「アメリカ兵にやられた」という事で幕にしたのでした。アメリカ兵にしてみればいい面の皮だが、アメリカ兵の町民への暴力沙汰はしばしばあったので…また、お巡りさんも「アメリカ兵」と聞いただけで取り合ってくれなかったんです。

半鐘泥坊

毎朝うちの前を東ゲートへ向かうおおぜいの駐留軍労務者の中、一人目立つ日本人離れした目鼻立ちの綺麗な背高い若い女性がありました。
大きな米兵より、あたま一つ高いのだから六尺は優にあろうと噂されていました。
タイピストとのことですが駅前にたむろする、パンパンガールのお姉さんは、
「タイピスト?お体裁女め!あたいらと同じパン助のくせにさ。あたいらの目は節穴じゃねえんだよ」
と言うのでした。
確かにタイピスト、通訳、PXの事務員などと言いながらオンリーさんだったり、米兵の袖を引く女もいたのです。
我が家にいたオンリーのレイ子さんだってタイプの打てないタイピストでした。
この、のっぽのお姉さんを皆は半鐘泥坊と呼び、今でこそ180cmの女性は珍しくもないがぼくの子供の頃は振り返らずにはおれないほど珍しがったのです。
金ちゃんの紙芝居

えいりなはもの

裏庭にブドウ棚がありました。棚下は玄関脇を通って駅へ抜ける近道で、ぼくん家に来るお客さんは便利にし使いましたが、いつの間に公道と勘違いする人も現れ、僕たちが遊んでいると「こんなことでベーゴマなんかやってんじゃねーよ、邪魔だんべ!」と言って通る人まで出て、お父ちゃんは〈通り抜け禁止〉の張り紙を出したのですが、なんの効果もありませんでした。
ブドウは毎年良く実が成り、早く食べたいのですが熟れるのを待つのも楽しみで「あの房はおれの!」とガキ大将のKちゃんは勝ってにきめ、僕に向かって「オメエのケンリはユウコウだ」と、なんだかわからない事を言いながら僕には一番大きな房を割り当ててくれたのです。嬉しいような悲しいようなヘンテコな気分でした。
そのブドウが或る朝、全て消えてしまっていたのです。Kちゃんは僕がケチ心を起こしかくしたと思ったらしいのです。広澤観音堂のハニーさんが真夜中に米兵やらせた事と分かりました。ブドウの房は米兵は誰でもが持つ手のひらに収まるで鋭利な刃の飛び出しナイフで切り取られていたからです。しかし例によって米兵の絡む事全ては、うやむやに終わる時代、白状したハニーさんも何食わぬ顔で棚下を通って駅へ仕事探しに向います。
この秋、僕たちはひと粒のブドウも口にできませんでした。

外便所とおはぐろとんぼ

水谷村(現、富士見市水子)のおじいちゃん家は百姓で、野良に出てても地下足袋のまま用が足せるように、竹林を背にした外便所がありました。竹林の裏は柳瀬川が流れ、無数の真っ黒なおはぐろとんぼが蝶のようにヒラヒラ飛び回り、便所の中まて入ってきました。 続きを読む: 外便所とおはぐろとんぼ

寝小便と座敷わらし

僕は小四まで時々「ねしょんべん」をやらかしていました。お母ちゃんが人目に付かぬよう干してくれたので、隣で寝る弟にも、敷布団に描いた大世界地図も、友達にもばれる事はありません。こんな日は言われなくとも、すすんでお母ちゃんの手伝いをしたものでした。
続きを読む: 寝小便と座敷わらし

夕立ち

入谷の朝顔市が終り、浅草観音ほおずき市。四万六千日と続き東京のお盆様がきます。毎年春秋彼岸、お盆にはお母ちゃん手作りのおはぎ、ぼたもちを浅草のおばあちゃんの家へ届けるのが僕の役目でした。
黒人兵ト二ーがPXで買ってくれた本物のアメリカのブルージーンズとアメリカのズック靴で 続きを読む: 夕立ち

さんまたいむ

小学校一年生になった昭和23年(弟が生まれた五月頃)、アメリカが「さんまたいむ」というのをやれと言うので、時計の針を一時間進めました。それでどうなったかというと、僕には何も変わりはないのですが、学校が早く始まるのが嫌でした。何でこんなことするのか分からず
続きを読む: さんまたいむ