子供御輿

1953年(昭和28年)戦後初めての駅前富士見地区の夏祭り。
御輿も山車も無く浅草の御輿屋から借りることになりました。大人の神輿は賃料が高く、仕方なしに子供御輿一基を借り受けました。
今は女性も御輿に肩を入れますが、此の頃は男だけに限られていました。
男勝りの女ターザン・みちえちゃんですら担がせては貰えなかったのです。
いつの間にやら「せいや、せいや」がかけ声になっていますが、昔は「わっしょい」以外はありません。
ガキ大将を中心に子供たちは商店を巡り寄付を募ります。
店構えは立派でもびっくりする程の小額の店もあり、そんなところへは先棒の中学生が御輿を、うまく誘導し店内に突っ込み御輿を何回転かさせ、商品を蹴散らしました。大人の世話役連も口では「やめろ、やめんか!」を連発するものの子供御輿の好きにさせていました。
「景気をつけろ、塩まいておくれ!わっしょい、わっしょい!」僕も担ぎ棒につかまって店内のあれこれを、踏んずけたり蹴飛ばしたり…しちゃいました。

広告

工作

夏休みに入ると2.3日で宿題帳「夏休みの友」を終わらせ、絵日記も嘘っぱちをせっせと描き、一週間もすると工作を残して宿題は片付けました。あとは絵日記の天気と気温の書き込みですが、5.6年生になると平気でデタラメを書いていたのです。1クラス45人分の絵日記を先生が1ページ1ページ確かめる事など決してない事を知っていたからです。
遊びに遊び、夏休みも終わり近くなり工作のモーターボートに取り掛りました。一進堂書店で馬糞紙と呼ぶ黄土色の5円の工作用ボール紙と10円の黄色いチューブのセメダインを買いました。馬糞紙は色付けしても綺麗な発色が叶わず、空いた菓子箱を利用しました。絵の具を厚くぬり、その上に防水にローソクを溶かして塗るのです。夏休みの宿題工作展でこのボートは銀賞を頂きましたが、同じようなボートを出したS君が去年に続き金賞でした。その違いはスクリューがあるか無いかです。「あいつ、兄ちゃんが手伝ったに決まってるぜ!」たしかに僕もスクリューに挑戦したのですが、手に負えませんでした。
ボートの名は黒人兵トニーのオンリーさんの名前を取り「ベリー号」です。僕はトニーとベリーさんが大好き!それに船には女の名がふさわしいと、トニーが教えてくれたからです。

おきどり君

敵のピッチャーは色白の背高のっぽで「女かよぉ」と誰かが言った程の長髪で、一投ごとに帽子を飛ばし、その都度鼻までも隠す前髪をすくいあげ、帽子をかぶり直すのを女子はウットリとした目で見ています。
「助平なやつだな」誰かが言う程、今迄に見たことも無い「かっこつけやろう」でした。
相手チームは引又の小学校チームです、どんないきさつで試合をすることになったか全く記憶にありません。
一行はオート三輪車三台に分乗してやってきました。
ぼくが試合に行く時は、どんなに遠くても歩いて行くので現地についたときはクタクタで、そのためとは言わないけれど(言ってます)連戦連敗だった。
ところがこの日、僕たちは大差で勝利したのです。というのはこの気取りやピッチャーと来たら投球ホームばかり気にして、あまりまともなボールが投げられずフォアボールの連続でした。
僕らは自作の丸太ン棒バットを担いでいればいいのでした。押し出しの連続です、それでもピッチャーは平気のへいざで投げつずけ全く動じません。
後で耳にしたことですが彼の家は川越までよそ様の土地を踏まずに行ける財産家の子供でした。
僕たちはユニホームもそろわぬ下駄履きの、布製ぼろぼろグローブでしたが何もかも完璧にそろった敵に勝利し気を良くしていました。
「またやろうぜ」気取り屋が言った時、誰かが言いました。「野球って恰好じゃねえよな」。
聞こえ無かったか彼は耳のあたりの長い髪を手の甲で後ろに跳ね上げ、オート三輪に乗せられ帰って行きました。
「なんだ、あいつら?」「わかんねー」彼らのチーム名も気取りやピッチャーの名も覚えていませんが、女子たちはしばらく「かっこ良かったね!」なんて話してました。昭和24年、ぼくが小学4年生の出来事です。

女学生M子

M子は中学に進むと同時に父母の一杯飲み屋を手伝い始め、三年生になった頃には看板娘になっていました。
取り立てて姿形が良い訳ではありません、酔客には愛嬌ある歯に衣を着せぬ言葉が好まれたらしく別の言い方をすれば、単なるスレッカラシだったということです。
この頃は中学を卒えると、家業の手伝いか町工場に働きに出ることが大半でしたが、M子は店が繁盛して景気も良かったのでしょうS女学校へ進みました。
ある日彼女は行方不明になりました。警察も新聞も誘拐事件と大騒ぎになり二週間後、町内根岸の農家U家の物置に男と隠れ住んでいるのを見つけられました。男は店の客の三十代のヤクザで、M子が計った狂言誘拐事件であったことが判明したのです。
警察に保護された時の彼女の言葉は「母だって遊んでいた、あたしがなぜ悪い!」に町は騒然でした。M子の母もこのヤクザとは親しい関係にあったことをM子は知っての事だったのでしょう。昭和25年の事です。

デンタカとポン中の竹

電気工事人タカちゃんがデンタカ、遊び人の竹ちやんはポン中の竹と呼ばれ、僕ん家にも出入りしてました。
二人は20代半ばで幼馴染み。デンタカは腕の良い電気工事人で、かなりいい給料はを取っているとの噂ですが、竹ちやんは根っからの怠け者の遊び人でした。
賭け事とポン引きで食べてますが、手にした金はヒロポンという覚醒剤に注ぎ込み、青白い顔に血走った目をしていました。
そしてヒロボンが切れると僕ん家のお風呂場に駆け込み、肘の辺りに生ゴムの紐を巻き、血管を浮きあがらせ自分で注射して「飯のかわりさ」と言ってました。
しかし、その飯代にもピーピーしていてデンタカにたかってました。デンタカも殆どアル中ですがいい男で、、、竹ちやんの金ずるでした。
赤提灯おかめはヤクザ、ポン引き、パンパン、不良少年の溜まり場で真面目な勤め人が暖簾をくぐることはありませんでした。

新聞配達

子供達に新聞配りが流行ったことがありました。きっかけは小3のM子ちゃん。
新聞配りで家計を助けている親孝行が評判になり、僕も、あたしも、褒められたいと「細野新聞専売所」に押しかけたのでした。
そんなわけで其れまでの子供達が配っていた5,60軒分を3,4人でわけあう事となったのですが、ひと月もすると1人やめ、2人やめしてM子ちゃんの他3人が残るだけになりました。
僕もその流れに流された1人で、早起きは辛いからと夕刊にしたのですが、半月とつづきませんでした。
犬が恐い、を理由にやめたんですが新聞屋のおじさんは「駄賃」だと30円をくれました。
そのお金はその足で紅梅キャラメルを買いにはしりました。
「野球は巨人、キャラメルは紅梅」だからです。

のぼり竹

校庭の西側の氷川神社の参道沿いにのぼり竹があって、皆は猿の如くスイスイ登って天辺に着くと、手足の力を抜きシューっと急降下します。
中には体を反転、頭を下にしてのサーカスまがいの急降下もいましたが、僕は雲梯と同じく不得手で裸足になって足指も使って登ることも教えてられたがだめで、とうとう一度も天辺に到達することは叶いませんでした。
僕たちはのぼり竹と呼んでましたが、正式にはハント棒(よじ登る)ということです。

三角ベースとあんぱん屋

三角ベースでも野球は野球。キャツチヤーの後ろにはちゃんとあんぱん屋が立っています。しかし自分より喧嘩の強い奴とか勉強のできる理屈っぽい奴には、誰が見ても真ん真ん中のストライクでも「ボール!」の判定でした。
僕はなんであんぱん屋なのかが分からなかった。僕ん家の家業、せんべい屋ではいけないのか?それが「アンパイア」と知ったのは黒人兵、チョコレートボーイのトニーとキャツチボールをした時、四年生になってすぐの頃。だったろうか?今考えりゃわかる事、パン屋やせんべい屋が審判員として立つ訳は無いもんね!
浅草の従兄から貰った本革のグローブはワセリンという油を塗り、大事にしていました。外に持ってでたその日に盗まれてしまいましたが、何故かお母ちゃんが型紙を写していてくれ、毛布やフエルトで試行錯誤で作ってくれました。本革のグローブのように、すっぽりと球は収まってくれず、キャツチした時のピシャ!もしくはパシッ!の音が無いのが不満でした。
「少年クラブ」付録のグローブやミットの型紙を持っていましたが、布製ではいくら綿をあんこに詰め込んでも無駄でした。
三角ベースは適当にあやしげな二等辺三角形を引いて始めますが、別にルールにはこだわりません。正式なルールを知る奴だっていませんから、見よう見まねです。あんぱん屋だってストライクとボールの判定があるだけですが、それでも結構楽しかったんです。
背番号16は読売巨人軍赤バットのホームラン王、川上哲治で誰もが背番号は16です。もちろん、僕もです。

マネキン人形、白日夢

志木駅から浦和へ向かう途上、新河岸川にかかる栄橋を渡り左に折れると水谷村水子のおぢいちゃん家への道。
左右は白鷺の舞う田んぼと溜め池のちらばる凸凹の砂利道です。
そこを300mほどいくとマネキン人形工場があり、くりくり頭の裸の女が何十人も並び、のっぺらぼうの顔を一斉に僕に向けたのです。そばには首の無い腕の外れた胴体が転がっていて、道との境に張られたネットの下から白い腕がぬっ!と飛び出している気色の悪さです。
(ここは、さんじょうめ、と呼ばれた現在の水谷東3丁目のモード工芸社でしょうか?)
加えて白昼なのに人通りもなく、僕は一人で怖くて顔を背け通り抜けようとしました。すると、「坊ちゃん、どこいくの?」「お汁粉飲んできなよ!」マネキン人形が話しかけてきたのです。恐怖のあまり夢中で逃げたのですが、野良犬が追いかけできます。僕と駆けっこでもしてるつもりなのか無我夢中で逃げて、おぢいちゃんの家に駆け込むと同時に失神したらしいのです。
気づいた僕の耳におぢいちゃんの声。「お化け、お化けって、トシヲは臆病者だからな」この晩、僕は熱を出しメメズを煎じ飲まされたのでした。

アメ車

駅前通りの大店岡田屋雑貨店の裏には「大林の広場」と呼ぶ大手建設会社、大林組の資材置き場がありました。
塀も柵も無く出入りは自由で草地のままなので、子供たちの格好の遊び場ばかりではなく、サーカスや大相撲が来たり、お祭りや盆踊りの会場にもなりました。
ここへ僕んちに居たオンリーの冴子さんの彼氏のニールさんは「アメ車」と呼ばれたアメリカのでっかい乗用車を駐めていました。
ある日「アメ車」が物色されました。工具まで使って部品を外され、外形だけ残してわずか二日間で全てを持ち去られました。中学生の不良グループの仕業とされましたが工具まで持ち出しての所業は大人としか思えません。
そしてニールさんの「アメ車」は火を放たれ黒こげになったのです。結局犯人はわかりませんでした。
僕たちにスイカ泥棒を押し付けようとしたのも2人組のおばさんでした。

曹長ニールさん

アメリカ兵のニールさんは日本語の会話はもちろんのこと、読み書きもとても上手でした。
それも日本に進駐してから僅か3年で習得という事です。
「わたしは、職業軍人です。進級を望む事当たり前、だから、お勉強した!」
それゆえか日本食も、刺身にワサビ、おでんに辛子、納豆、くさや、なんでもいけました。
父とは浴衣がけで正座して将棋を指し、囲碁を打ちました。
休日には成増にあった日本拳法の道場にも通っていたほどの日本びいきです。
日本人と結婚し奥さんとの間にリサという2歳の青い目の可愛い女の子がいました。
近くの広場で彼の真っ赤なアメ車が放火された話は「アメ車」で詳しく書きました。

床屋の小夜ちゃん

「そお、、、おめでと]そう言って小夜ちゃんが涙を落としたのを鏡の中にみた。
其のときこうして小夜ちゃんに頭を刈って貰うのは最後かもしれない、
とそんな気がしたのは小学校卒業の前日のこと。
生まれてすぐ、僕は東都雑司ヶ谷の鬼子母神に弟子入りしたので常に髪は短く、坊主頭がよしとされていたのですが床屋嫌いの僕は何処の床屋もてこずらせとうとう態よくことわられたそうな。
そんなとき駅前の長島女床場に居た見習い中の小夜ちゃんだけには大人しくバリカンを当てさせたらしい。
小学生になると小夜ちゃんは頭頂部を丸や三角四角に残して、僕をからかった。
アメリカ軍が進駐してからは星の形に残したりもして、大笑いしたこともあった。
昭和29年3月26日小学校卒業式前日、この日も「インデアン刈りにしたよ]うとうとしていた僕を驚かせ、おかめのよ  うな顔で一人大笑いをしていた。
その後独立し、隣町志木に店を持ったが中学に進んだ僕の足は遠のいてしまったのでした。
今思うと僕の頭にバリカンを当てたのは、虎刈り名人の父といたずら好きの小夜ちゃんだけだった。
小夜ちゃんの店は今もありますが、大好きだった小夜ちゃんは、とうの昔に黄泉の人である。

大縄跳び

休み時間や放課後は白墨程の太さの縄で縄跳びをしました。
縄は地面に当たるとピッシピッシ音がする程早く強く回されるので、僕はなかな飛び込めません。
タイミングを計ればはかる程難しく成り、いざ飛び込むと決まって足や首に引っかかり、しばしば中断され皆からは「へたくそやろう」ってな顔をされました。
使い込まれた縄は汚れに汚れ、ニッキ棒とか牛蒡のような色で当たるとかなりの痛さです。
一度、顔に受けてしまい鼻の皮をベロリとむいてしまいました。
以後怖くて大縄跳びには参加しませんでした。かといって一人の縄跳びも下手くそで縄跳び競争は転倒の連続、勿論二重飛びや三重飛び、後ろ飛びなどは全く叶いませんでした。縄跳びは苦手です

ニワトリ泥ぼう

ある朝、鶏小屋から5羽の雌鶏と毎朝7.8個は生んであるはずのたまごが盗まれていた。
3日後、駅前派出所の巡査により犯人は広沢の池の観音堂をねぐらにするハニーさん達の仕業と判明したものの、鶏やたまごは彼女達の腹の中で戻ってくることはありませんでした。
それならば家で食えばよかったと父は無事だった雄鶏を絞め、隣組のみんなを呼んで鍋で宴会になりました。誰もが「美味え、うめえ!」と箸をつけていますが僕は駄目でした。だってさっきまで僕の下駄の足をチヨンチヨンと突きによってきた、可愛いやつらだっのですから。
お巡りさんによればハニーさん達は雌鶏の肉はやわらかいことを知っていて雄鶏は残していったそうです。地方出身の田舎のお姉さんが多かったから鶏を鳴き声を上げさせず盗み出す術を知っていての犯行でした。

広沢田んぼ

ここは広沢の観音池から東に、東上線にぶつかる手前の湿地で田んぼの体裁は整えていますが、米を作っているのをみたことはありません。
上の流れは観音池の湧き水のきれいな小川でしたが、CampDrakeから流される汚水で黒く、茶色く、白く濁り異臭を放っています。
左手の建物は名高い「越戸のパンパンハウス」で六畳一間に割られた部屋が五つ六つある長屋です。
田んぼは季節を問わず子供たちの遊び場で、今日はオタマジャクシを捕りにきました。でも僕は素手でつかめません。あのヌルヌルがとても耐えられないのです。ましてや皆の様に寒天状の卵を持つことなどなおさらのことです。
駅前通りt電気店のkちゃんはこの卵を飲み込むことができ、調子に乗ると、特に女の子の前では太ったオタマジャクシまでもごっくんとやり、さらにはミミズも泥も…何でも食べたんです。
女の子みたいに優しい可愛い男の子だのにです。「癇の虫の仕業」だと言われていましたが、Kちゃんはヤモリ、おけら、芋虫も食べちゃいました。癇の虫ってどんなんだろう。

駅前ひろば

白昼だと言うにMPのジープはライト煌々、モウモウの土煙をあげ、小砂利を弾き飛ばし横滑りする程の急ブレーキで駅前ひろばに突っ込んできた。
土煙の中から現れたのは大人たちが鬼畜と慄く(おののく)仁王様そのままのMP2人、後部座席には必ず日本人のお巡りさんが一緒だった。
ガソリン臭を吐きブルルンブルルン武者震いするジープに、子供は飛びつきチヨコレートをねだり、パンパンのお姉さんはお仕事の約束を取り付けるに一生懸命です。
普段なら威張り腐ってる巡査もMPと一緒に居るからでしょうか僕たちにもパンパンにも愛想がいいのでした。
子供たちが貰ったアメリカたばこは無言でとりあげました。そして自分のシガレットケースに詰め替え、コッソリ吸っているのを僕たちはちゃんと知っていました。

アドミュージアム東京

カレッタ汐留の中に広告とマーケテイングの博物館があることを知らなかった。サラリーマン生活を広報・宣伝部門からスタートした者としてははなはだ迂闊であった。
電通の第四代社長故吉田秀雄氏の生誕100年を記念して開館したとあるから既に20年、江戸時代から今に至る日本の広告の歴史が展示されている。 続きを読む: アドミュージアム東京