八ッ場(やんば)ダム建設現場を見る

八ッ場ダムは民主党政権誕生時、「時代に合わない国の大型直轄事業を全面的に見直す。」との勇ましい掛け声とともに、いったんは建設が中止されたものの、その後復活した曰く付きの大型公共工事である。
ひと頃“八ッ場へ行く”ということはダム建設反対運動の支援に行くことと同義語にとられたが、住民訴訟も行政訴訟も退けられ、今は3年後の完成を目指して工事は着々と進んでいる。

12月8日、その建設現場を見に行く。目的は次の「頼れる大人の会・社会科見学」のアイテムとして適当かどうか判断するため。結論を言うと非常に悩ましい。大型の土木工事を見るという視点だけなら、「佐久間ダム」や「黒四」をドキュメンタリー映像で見ている人に特別な驚きはなさそうだし、利根川水系の川俣ダムや矢木沢ダムで骨材プラントの取材をした自身の経験からは特に珍しさを感じない。
ただしその頃は重要な論点と考えられなかった“自然破壊問題”や“地元住民の生活再建問題”、とりわけ“本当にダムは必要なのか”という根本問題を考えるなら、「八ッ場に行く」ことに意義はありそうだ。

息長く、八ッ場ダム事業の問題点に係わっている「八ッ場あしたの会」に所属するT氏、O氏に意見を求める。過激派でも何でもないお二人だが、口々に唱えるのは、「見るべき価値は充分ある。いかにムダな公共事業をやっているか貴方の目で確かめてほしい。熊本県の川辺川ダムが中止され、同県の荒瀬ダムの撤去工事が進む中で、八ッ場はこれから作るという。ダムだけでなく、道路・橋・トンネルなど数十年使われたインフラの維持補修費にこれから巨額の金が要るというのに、こんな必要性に疑問だらけのダムを新設するのは許せない。始めたら止まらない公共事業の典型である。」と。


国土交通省・八ッ場ダム工事事務所が用意してくれたマイクロバスに乗って、「なるほど!やんば資料館」でダムの役割を聞き、その後、高所からダム本体工事現場を俯瞰する。
完成後の姿を想像するのは難しいが、多分「吾妻湖」とでも名付けられそうな巨大な湖の周辺には、水没地区から高台の代替地に移転した新築の住宅がちらほら。しかし全域が水没する地区では四分の三の世帯が代替地での生活再建を諦め、地区外に転出したという。
ダム湖に沈む川原湯温泉はどうなるのであろうか。もともと天下の名湯草津温泉や四万温泉に隠れた地味な存在だったが、古民家のような湯宿が連なる鄙びた温泉街であった。
自然湧出の源泉が沈むことになり、ボーリング調査で新源泉を掘り当てたというが、湯量、泉質とも旧源泉とは異なるらしい。
三陸の震災復興地に見かけるような新建築の旅館が既に数軒営業している。しかし浴衣でそぞろ歩きするような「温泉街」のイメージには程遠く、流行りの健康ランドか日帰り温泉センタークラスである。

工事事務所、つまり推進派が用意してくれた申し訳程度のチラシに比べると、反対派「あしたの会」の資料は圧倒的である。八ッ場ダム建設の主目的、利根川の洪水調節(治水)、首都圏水道用水・工業用水の供給(利水)、吾妻川の流量維持、群馬県営発電の一つ一つに具体的な数字とデータを挙げて克明に反論している。
しかも「ダム予定地の地質は脆く、ダム湖に貯水することにより、ダム湖周辺の住民居住地で地滑りの誘発が懸念される。今後も事業費の増額が必要とされよう。」とある。本当にそうなら、我々はまたしてもムダな公共事業に加担してしまったことになる。
(2017.12.12)

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みんな怒っている

旧知の井筒高雄さんの講演を聴く。元陸上自衛隊レンジャー隊員。今は元自衛官の立場から戦争のリアルを語り、憲法遵守を声高に叫び全国で講演活動を行っている。

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■12月1日、浦和コミュニテイセンター200人規模の集会室。
自衛隊の実態と憲法9条加憲問題』と銘打った講演に、金曜日の夜という時間帯にも拘らず大勢の聴衆が集まり、彼の話に聞き入り食い入るようにスクリーンを見つめる。
「日米地位協定」、「北朝鮮脅威論と自衛隊ミサイル防衛の現実」、報道されていない事実も多く、知らなかったなあ、なるほど、やっぱりそうだったのかと頷く場面も多い。
ただ何時ものことながら、この種の集会で気になるのは、仲間内だけが分かる言葉で会を運営すること。下手な日本語、稚拙な進行に苛立つ。しかもシュプレヒコールを強要したりする。これでは参加者は広がらない。
さいたまには“梅雨空に九条守れの女性デモ”という俳句をめぐる訴訟問題すら存在する。大それた憲法問題を論ずる以前に、もっとわかりやすい形でフツーの市民に参加を呼び掛ける方法はあるはずだ。市民の共感をえなければ運動は広がらない。

ところで、森友・加計問題。トランプリスク、北朝鮮ロケットマン、英EU離脱に比べると、政治家のスキャンダルに過ぎないという声もあるが、そうは思わない。
公文書管理、人間の良心、権力と思い上がり。日本人の常識、行動、思考を揺るがす大問題である。いま明らかにされつつあるのは、権力さえあれば何でも出来る、何をしてもいい。そこには自制も抑制も倫理観も道徳観も無く、あまつさえ常識すら変え得るという無法状態が生み出されていることである。
フクシマはアンダーコントロールされていると宣った男だから、マスコミをコントロール下に置くことなどは容易である。国民は今の力関係では到底ムリと思っているから黙して語らない。
危惧するのはこのまま10年もすると、日本人の精神構造が本質的に変化しまうのではないかということである。

さてそのフクシマ。事故から6年半、日本は福島棄民政策を取っていると言わざるをえない。国を挙げて震災復興と原発の事故処理に取り組むはずではなかったのか。
自主避難者への住宅支援打ち切り、仮設住宅の提供終了、帰宅困難区域への帰還促進。人間のやることではない。事故はなかったことにしたい、犠牲者はいなかったことにしたい、これではまるで南京事件を無かったことにしたいという発想と同じではないか。我々はフクシマを決して忘れてはならない。


■11月30日 脱原発社会をめざす文学者の会
福島出身の作家志賀泉氏とフォトジャーナリスト大石芳野氏の映像を交えた講演を日本文芸家協会で聴く。題して「チェルノブイリからフクシマへ」。
・9月中旬、チェルノブイリの現状と実態をたどるツアーに参加した。
・ウクライナ政府は率直に原発事故と事故後の対応の過誤を認めている。日本との差異は大きい。
・事故発生は1986年4月。ことの重大さを知らず市民は外出し、大量の放射線を浴びた。避難の始まったのは翌日から。三日分の食料と貴重品だけの命令に、市民は三日で帰れると信じた。
・セシウムの半減期30年を過ぎても、新たな被曝により病人が急増している。汚染された森林から木を伐採し、ペチカの燃料としたため、空気中にセシウムが拡散した。また炭を畑に撒いて肥料にするため野菜に汚染が拡大した。
・旧ソ連は事故当初、避難区域をゆるく設定した。そのため大量の被害者、特に子供の健康被害は重大で、放置すれば国家の存続が危ぶまれるとして、1991年チェルノブイリ法が制定された。


■10月17日 中村敦夫 朗読劇「線量計が鳴る」
ハンチングを被りバッグを背負い、山歩きするような姿、手には線量計を持ち計測しながら登場する。汚染された福島の各地の線量を測っているという設定。

原発は安全だ、安全だあって 自分と他人をだまくらかしてメシを食ってきたんだからな。それにしてもどこさ行っても家族や親類や友人が死んだつう話を耳にしだ

かつて原発の現場で技師として働いてきた男のモノローグ、朴訥な福島訛りで進められる。
電源三法、電気事業法、原子力損害賠償法…物語の進行にあわせて難しい用語の解説やグラフがスクリーンに映し出される。
原発利権に群がる政治家、役人、電力会社、関連企業、原子力学会、御用学者、御用マスコミなどを痛罵する。
さすが一流の役者。のちにテレビキャスター、政治家として活躍しただけのことはある。完璧な話術と説得力で聴衆を惹きつける。
ライフワークとして全国100回公演を目指すという。その二十数回目を東京笹塚の小ホールで目撃した。
(2017.12.5)

映画『ヒッチコック/トリュフォー』2015米・仏

日本映画の巨匠といえば、黒澤明、小津安二郎、それに成瀬己喜男、木下恵介を指すことに異論はあるまい。洋画の世界では、西部劇のジョン・フォード、サスペンスのアルフレッド・ヒッチコック、どの分野にも代表作のあるウイリアム・ワイラーが巨匠の名に相応しい。
物心がついて以来映画もずいぶん見た。一作ごとに感想、批評を書きつけた作品ノートをひっくり返すと、その数は1,500本を超える。年間平均25本。いくら好きと言っても現役時代はせいぜい年に10本くらいだったから、前後の学生時代と退役後は40本くらい見ていることになる。


「シネマサークル」、「映画研究会」といったグループに所属して、これまでに見たベストテンのようなものを発表したこともあるが、いまその中からベスト1はどれかと問われれば、躊躇なく邦画では、黒澤の「天国と地獄」(1963)、洋画ではヒッチコックの「裏窓」(1954)を挙げる。
ことに「裏窓」は、“サスペンス映画の要素をすべて盛り込んで文句なしの傑作”、“ヒッチコック・スリラーの集大成”、“こんな映画は二度と作れない”・・・、映画の惹句そのままを評論家連中に言わしめた作品で、ウチにはLDもDVDもあるが、それでも再映される度に映画館に駆けつける。


今週のタイトル『ヒッチコック/トリュフォー』は、心酔するヒッチコックを、ヌーベルヴァーグ作家フランソワ・トリュフォーがインタビューした音源に基づく2015年製作のドキュメンタリー映画で、このほど公開された。
ヒッチコックは1899年イギリス生まれ。のちにアメリカに移住するが、イギリス時代では、暗殺者の家、三十九夜、バルカン超特急が名作と言われる。1939年、アメリカに移るとレベッカ、海外特派員、断崖、疑惑の影、見知らぬ乗客を次々と発表。1950年代に入ると、裏窓、ダイヤルMを廻せ、泥棒成金、知りすぎていた男、めまい、北北西に進路を取れ、で我々を夢中にさせた。そして1960年代には、サイコ、鳥の傑作を生み、1980年、80歳で他界した。生涯に50数本のミステリー・サスペンス映画を製作した文字通りの巨匠であった。 (2017.11.28)

帰郷と帰省

帰郷は「故郷へ帰ること」、帰省は「故郷に帰って父母の安否を問うこと」だという。そのいずれにも該当しないが、年に一度は奥能登の一寒村を訪れる。他人にイナカは何処かと問われれば、躊躇なく能登、あるいは石川県と答えている。
いま輪島市に併合された門前町道下村に、家も繋がりの深い親類筋もなくなった。あるのは昭和十年建立の自然石の墓だけである。
奥能登の蒼い海を見下ろす高台に、辺りを払うかのように建つここが無類に好きだ。
13年前、これとは別に、このまま放置すれば、分散・風化して無縁仏になりそうな先祖の墓数基も一箇所にまとめて供養した。10年前には能登半島地震で倒れた墓石を、地元石材業者の手でいち早く立て直した。前田家から扶持をもらった道下村の三郎左衛門を初代とする十五代として、遠く離れたこの地を年に一度は訪れる。

10月28日、二年ぶりの墓参。何時来てもいいのだが、なるべく親父の命日の周辺を選んでいる。空路、鉄路、陸路、朝霞から輪島まで700㎞、旅好き人間として考えられるルートはすべて利用した。しかし最近は金沢に住む親戚の車を借りてここにやって来る。
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いくつになっても疎開していた頃を思い出す。当時5歳、日本で何が起こっていたのかを知らなかったが、貧しい生活だったことだけは憶えている。しかし裏山の堤に上りフナを捕まえ、海に潜って貝を獲ったことなど幼年の頃の記憶は消えない。いまは村の公民館になっている旧国民小学校の跡地さえ懐かしい。
人家のない道を歩く。村内を通過する車は滅多になく、たまに出会う村の人は怪訝そうな顔で、“今日は”と頭を下げる。限界集落の典型のようである。これから先、この町や村はどうなっていくのだろうか。自然に還るという壮大な実証実験の場でもあるように思える。
(2017.11.21)

陸京会余聞

10月30日、復活後二回目のゴルフ会。会場は長野県の北部。首都圏からも北陸からも集まりやすい位置にあること、とりわけ豊野にセカンドハウスを構えたO君の存在が大きい。真新しい彼の住居を根城に男だけの生活が何日間もできるとは嬉しい。いい友達をもったと我々は感謝するし、本人も内心はともかくよく来てくれたと嬉しそうである。

初日は川中嶋カントリークラブ。眼下に善光寺平が広がる雄大なコース。川中島の古戦場も見下ろせ、決戦をイメージできるのだが、誰からも賭けの提案がない。以前なら何時もの賭けに倍加して「川中島」に相応しい賭けを考え出しそうだが、みなさん淡々と自分のゴルフに徹していて、合戦の気配はない。トシを取ったのだなあと思う。あの頃はプレー代に相当するような勝ち負けがあったのだが。

二日目、信濃ゴルフクラブ。この日は快晴無風。北信五岳が眼前に聳え、コースを囲む木々の紅葉が美しい。コースは平坦だが、グリーンが凄く速く難易度は高い。ロケーションとしては水上高原GCの紅葉と小淵沢CCの白樺林を彷彿させる。
ゴルフの内容には語るべきものは無く、戦力外通告を申し渡された心境でプレーしているのだが、もう一度やりたいコースに加えることに異議はない。
これで日本全国356コースのゴルフ場でプレーしたことになった。もうこれ以上増えることもなさそうだが、仲間にもこれを超えそうな情報はない。

帰途、飯綱町のリンゴ農家に立ち寄り、シナノスイート、シナノゴールドなどを大量にしかもタダ同然で分けてもらう。これも定住し始めたO君のお蔭と感謝の念は更に深まる。
(2017.11.14)

JR小浜線

56年ぶりに小浜線に乗った。昭和36年(1961)の春、西日本の国鉄を一筆書きのやり方で廻って以来である。
小浜線は福井県の敦賀駅と京都府の東舞鶴駅を若狭湾沿いに走る84.3㎞の鉄道で、1961年3月に気動車化、2003年3月に電車化された。電化の際は沿線の美浜町、高浜町、大飯町に立地する関西電力、北陸電力など原子力発電所が総事業費の過半を負担したという。
その電力で走っていたかどうかは知らないが、今は125系電車が一時間に一本程度のダイヤで、この両都市を約2時間で結んでいる。しかし沿線の旅客需要は京都、大阪へ直行する高速バスに奪われているようで、2両編成の電車内には空席が目立つ。

10月27日、大阪から福知山線で出発する。同行するのは陶芸家の友人N君。多趣味の彼は鉄道にも詳しい。沿線の丹波篠山は丹波栗や黒豆で名高いが、趣味人の彼らは月に一度は訪れ、丹波焼に盛られた特産品を珍重するという。そんな解説を聞きながら、特急「こうのとり1号」は愛称名を宝塚線と名乗る山間の福知山線を快走する。
福知山からは3セク「京都丹後鉄道・宮福線」で宮津に向かう。路線延長30.4㎞のこの鉄道は比較的新しい。酒呑童子伝説で有名な大江山連峰をまたいで福知山と宮津を最短距離で結ぶ計画は長く凍結・中断されていた。
手許の毎日新聞社編『日本の鉄道(Ⅰ)1960年』の地図では「北丹鉄道 計画線」と点線で示されているにすぎないし、1983年発行の昭文社『分県地図 京都府』でも細い点線が将来の鉄道路線を暗示させるだけである。
それが国鉄分割民営化後の1988年、3セク「北近畿タンゴ鉄道」として発足し、さらに2015年からは上下分離方式で所有者と運営者を分け「京都丹後鉄道」としての運行が始まった。
経緯はややこしいが、現在天橋立をはじめとする丹後半島への観光向けにJRは特急など全列車をこの路線経由で運行している。
ただし各停指向の我々は、「丹」と先頭車に表示された一両の気動車に乗って、ゴトリゴトリと進む。50分後宮津着。
二度と行こまい丹後の宮津
シマの財布が からになる
丹後の宮津で ピンと出した
民謡で名高いかつて丹後ちりめんで栄えた宮津の町だが、駅前を瞥見した範囲では往時の賑わいは感じられない。

次に乗るのは京都丹後鉄道「宮舞線」の24.7㎞(宮津-西舞鶴間)。これは昔のJNR宮津線の3セク化で、この路線には西日本一周の折に乗っている。短い路線ではあるが、ここには安寿と厨子王の山椒太夫遺跡やら丹後由良と丹後神崎間の由良川鉄橋など見どころは多い。
西舞鶴からは綾部からやって来るJR舞鶴線で一駅先(6.9㎞)の東舞鶴へ向かう。こうしてようやく小浜線の始発駅に到着した。

さて小浜線、車窓から差し込む日差しと眠気と戦いながら窓外に目を凝らすが、意外にも若狭湾べったりに走るところは少なく、特徴ある原発建屋の姿も確認できぬまま、三方五湖をわずかに遠望しただけで、2時間後敦賀に着いた。

「海のある奈良」または「小京都」と呼ばれる小浜市内には、明通寺、若狭国分寺といった有名寺社や蘇洞門という日本海の荒波に洗われる絶壁があり、京都から仲間の車で見に来たこともある。しかし小浜線を通過する限りではそんな観光客の賑わいを感じない。ただ車窓には時々周囲の景観とは異質の都会の施設のような箱モノが現れる。これが原発の見返りかと勘繰る。
大阪から8時間、非日常のローカル線に付き合ってくれたN君と敦賀駅で別れる。敦賀からはJR西日本が誇るサンダーバードで金沢へ。こうして北陸新幹線で金沢へという単純明快なルートを否定して、乗り鉄として新しいルートを開発した。 (2017.11.7)

 

受講者殺到 ユニークだった3講演

「頼れる大人の会」の講演活動は16年目に入った。当然のことながら、我が人脈は尽きてお願いする講師先生を探すのがいわば仕事のようになった。もちろん仲間からの推薦、紹介もないことは無いが、毎月催すことに限界を感じ始めていた。
そんな矢先、最も親しいというべき友人から、非常にユニークな講師を立て続けに紹介されるという幸運に巡りあった。灯台下暗しで、こんな事ならもっと早くから話しておくべきだったが、もともと体育会系の彼に、こんなユニークでアカデミックな人たちとの交流があることを想像していなかった。今は不明を恥じるのみだが、今週はそのダイジェスト。

音と骨の話し 音波を用いた長寿装置は可能か?
山下洋八氏 富山県立大学工学部 工学博士
養殖魚のひらめ、とらふぐに音波および超音波刺激を与えることで、高い生存率を示すことを実験で確認した。超音波が魚の骨髄を刺激して、骨髄の温度が僅かに上がり血流が良くなるからと考えられる。
超音波の医療分野での応用は、画像診断、皮膚再生、骨折の早期治療など広く知られた技術で、安価な装置の開発が望まれている。
講師らは家庭用の浴槽で使用できる「小型防水型で複数の周波数と複数のパルス超音波刺激を連続的に発生する」新装置を試作した。
装置の体積は500~1,500cc、重量は300~800gである。これを10分間/日、6回/週を連続してシニア・サッカー選手で中度の変形性膝関節症の痛みに悩まされていた64歳の男性でその効果を確かめた。
その結果、20週で膝の痛み低減、ランニング再開、50週経過後、視力回復、増毛効果も観察された。将来的には骨粗鬆症の予防、改善など医療分野への活用も考えられる。
開発中の本超音波装置を来年1月から「超音波式全身美容器」として中国企業がネット販売する計画が進んでいる。

中国 ~誰が13億人を統治するのか~
鶴田和彦氏 元日立(中国)董事副総経理
「誰が」というより「どうやって統治するのか」ということであろう。
中国共産党第19期全国代表大会 習近平の後継は陳敏爾有力
習近平の院政か?
反腐敗運動の高まり ネット社会、告発多い
学齢社会 大卒の就職難は社会問題化
中国のこれからは? 二桁成長から6.5%へ 国際機関への人材投 入 国民の衣食住満足感
会員からは中国国民の対日感情など、表面に現れない本当のところを本音で聴きたいという声も挙がった。

森をつくる ~なぜ森づくりが必要か~
目須田修氏 GOZAN自然学校プロデユーサー/野外遊ばせ人
森林の整備を怠れば、山の保水力が低下し豪雨や台風で大災害に見舞われることは記憶に新しい。
落葉樹林(落葉樹、常緑広葉樹)は木の実が、イノシシ、クマなどの動物や鳥類の食料になるなど生態系の維持と森の保水に不可欠。最近は森に食べ物が少なくなり、クマが人里に出て来て人間を襲うことも稀では無くなった。
原野は30年で森に還るが、「森づくり」により早く自然を再生することができる。この考えに基づき、世界で環境保林造りを実践する生態学者宮脇昭氏指導の下、目須田氏らは森づくりを推進している。
明治神宮は人工林である。1921年、100年後広葉樹を中心とした極相林に到達するという永遠の森が形成されることを科学的に予測した一大植林事業である。
明治神宮→朝霞基地跡地の森づくり現場を視察し、目須田氏からアドバイスを受ける他、長野県の森づくり現場を見学したい。
(2017.10.31)

絵本『金ちゃんの少年時代 アメリカ軍基地のあった朝霞』出版


朝霞畸人会の肝いりで絵本『金ちゃんの少年時代』が出版されたのは去る7月。マスコミ発表公民館の原画展、図書館郷土史コーナーの公開、市内書店の販売と計画は順調に進み、初版本はまもなく完売の見込みとなった。
手にとった読者からは「挿絵が親しみやすく、文章も読みやすく、読んでいて(見ていて)楽しい」、「終戦直後の朝霞の昔を始めて知り、子供の遊びや田園の風景を懐かしく感じます」、「郷土資料としても一級の資料で当時を知る人が減っていく中で、貴重な記録である」とお褒めの言葉を頂戴する。

このB5版60頁カラー版 の出版プロジェクトに関わった者としても嬉しい。
しかしこの成功は、金ちゃんこと田中利夫さん(75)が色彩豊かな紙芝居として描き続けてきた400枚に及ぶ水彩画、クレヨン画、パステル画の存在と、これを後世に残すべく絵本にして出版しようとした我が友人、石塚幸治さんの損得を無視した情熱溢れる働きの賜物である。

金ちゃんの実家は戦後、朝霞駅前で「貸席」と呼ばれる旅館を経営していて、そこには基地の米兵や娼婦たちが出入りしていた。彼は多感な少年時代をそういう環境で過ごした。長じて婦人服メーカーに勤め、デザイナーになったが、金ちゃんは抜群の記憶力で、当時の子供の遊び、商店街の盆踊り、神社の秋祭り、基地周辺にあった巨大なキャバレーのきらびやかさ、派手なドレスの娼婦たちの様子などを描き続けてきた。

終戦から70年が経過し、返還された基地跡地はいま公園や公共施設として整備計画が進んでいるが、この絵本はキャンプ・ドレイクと呼ばれた米軍基地と密接に絡んだ市民の営みを見事に再現している。
ここ数年、市内の老人クラブや町内会、学校で披露されてきた紙芝居が絵本になった。我々は好評に気をよくして続編の刊行を考えている。

なお「金ちゃん」とは独協中学時代に付けられたあだ名。命名者は重量挙げの先輩美濃部さん。のちの故古今亭志ん朝。「坂田の金時」を思わせる腕力に驚いた志ん朝がつけたというエピソードがある。 (2017.10.24)

公民館の原画展

朝日新聞の紹介記事
朝日新聞_紙芝居が絵本に20170623971

埼玉新聞の紹介記事
埼玉新聞 田中利夫さんの絵本20170731

スマイルよみうりの紹介記事
スマイル読売 絵本記事 20170905103

日本オープンゴルフと岐阜関カントリー・クラブ

数あるゴルフトーナメントの中で、最も権威のあるのが「日本オープン選手権」である。正式なハンデイキャップを持つゴルファーなら全員に参加資格はあるのだが、それを職業とするプロにアマチュアが勝てるはずもなく、最終日はプロ同士の戦いになる。だから余程の例外を除いてアマが勝つなどと言うことは無い。
その第一回大会は1927年、いまから90年前、神奈川県の程ヶ谷CCで開催されている。優勝者は赤星六郎。その後の勝者を追うと浅見緑蔵、宮本留吉ら伝説上の人物の名に当たる。そして戦中・戦後の中止の後、再開されたのは1950年。その時の優勝者は林由郎。
青木功、尾崎将司、中嶋常幸らが華々しく登場するのは、さらに30年後の1980年代である。しかし一世を風靡した彼らもシニアに去り、ここ数年は毎年のように勝者がかわるある種の戦国時代になった。
今年はその第82回大会が岐阜関カントリー・クラブで行なわれた。岐阜県での開催は35年ぶりと喧伝されるのだから、開催地にとっては名誉なことなのである。
とここまで書いて、例によってアタマをもたげたのは、収集癖というか潔癖症というべきか、何かしら整理しないと気が済まない我が性格。以下はインタビュー形式にまとめる。

Q これまでに81回開催されているが、ゴルフ場は何か所か?
A 大阪の茨木CC、埼玉の霞が関CCなど同一コースで複数回開催されているので、それを除くと47コースである。
Q 47ゴルフ場の内プレーしたのは何コースか?
A 27コースでプレーしている。日本オープン開催コースの半分以上でプレーしていることになり、“いいところでやってきた”ことになる。
Q 岐阜県のゴルフ場数とプレーしたコースは何か所か?
A 県内に約90コース。その内9コースでプレーした。記憶に残るのは多治見CC、岐阜CC、関ケ原CC。残念なのは不況とブームが去って、経営母体が破綻し名称変更したところが4か所あること。
Q 岐阜県の鉄道に関するコメントを。
A 県内のJRと三セク鉄道の総延長は420.7㎞。その全線に乗っているが、最も景色のいいところは高山本線の飛騨川に展開する「飛水峡」。この渓谷の眺めはJR全線の中でもトップクラスである。

 

(2017.10.17)

希望か失望か 解散総選挙の茶番

今回の騒動を見聞していて、古典落語の名作『唐茄子屋政談』を思いだした。世間知らずの大店の若旦那が遣り手の女郎にはまって実家を勘当され、あげく女にも放り出されるという、あれである。
若旦那も若旦那だが、枝野幸男もだらしない。もとより思想信条、哲学・理念も違うのだから9月末の両院の議員総会がチャンスであった。
あの時に新党立ち上げを宣言すべきで、遣り手婆に袖にされたから出て行くみたいでみっともない。世間の同情などは瞬く間に消える。
与党の補完勢力などと揶揄されることのない堂々たる野党を、時間をかけてもいいから作り上げて欲しい。

今回のことで言いたいことは山ほどある。しかしマスコミで語られる以上の情報はないので、この間朝日紙面に現れた括目すべき論評、まったくその通り!異議なし!と膝を打ったいくつかを再録し、これを自分の意見に替える。

杉田敦 法政大学教授 政治理論
憲法53条には、内閣は一定数の国会議員の要求があれば臨時国会を開かなければならないとある。それにも拘らず安倍内閣は3か月も放置した。国権の最高機関である国会の審議機能を行政の長が妨害した。憲法違反である。
そして漸く国会を開いたら、何の審議もせずに冒頭解散した。解散権は首相の専権事項と言うが、憲法にそんな規定はない。

長谷部恭男 早稲田大学教授 憲法
憲法違反すれすれの無体な解散をした政党には、主権者国民がお灸をすえるしかない。政党は本来、理念や政策を共有する人たちの集まりで、選挙互助会ではない。
安倍晋三はリベラルな無党派層が、政治はくだらない、自分の受け皿は何処にもない、棄権するぞと思ってくれれば好都合と判断している。

池澤夏樹 作家
加計と森友で追い詰められて一方的に解散。そのうえで「国難」とはよく言ってくれたものだ。
安倍晋三は主題Aについて問われてもそれを無視して主題Bのことを延々とぺらぺらと軽い言葉で話す。Bについての問いにはCを言う。対話ではなく議論でもない。
野党の無力と与党の制度疲労の隙間から小池百合子が頭をもたげた。しかも彼女の「日本をリセット」と安倍晋三の「日本を取り戻す」は無意味という点では同じ。
選挙の原理は「少しはまし」ということに尽きる。理想の候補はいないとしても、誰かの名を書いて投票しなければならない。

高橋茂 コンサルタント
森友・加計の本質は国がなぜ国有地を安く売却したか、国がなぜ獣医学部の新設を認めたかの点にある。なのに、問題を追求する野党議員にネガテイブキャンペーンを仕掛けて炎上させ、言論を封じてしまう。どんどん先鋭化する空気を許してしまったのは安倍首相自身である。

青木理 ジャーナリスト
安倍晋三は大きな志もなく家業を継いだ単なる世襲政治家。若いころを知る人は、子犬がオオカミの群れと交わり、オオカミになってしまったと表現する。今回も「国難突破解散」と称して危機を煽る。政治家は老舗の和菓子屋や歌舞伎役者の世界とは異なる。世襲ばかりが増えて政治を牛耳れば民主主義をゆがめる。

三島憲一 大阪大学教授 ドイツ思想
安倍首相のように、自分の困難を「国難」と言いくるめて議会を解散し、民進党の前原代表のように一夜にして党を溶かす小手先のやり方が続けば、心地よげな一体化の幻想の中で排除と差別が助長されるだろう。
(2017.10.6)

公開講座等3テーマ

「頼れる大人の会」を主宰して16年、シニアを対象に講演会等を企画する側に廻っているが、会の存続のためにも広くテーマを求め、講師を発見しなくてはならない。
むろん自身の勉強のため、知識の蓄積のためにも必要なことなので、大学の公開講座などにも積極的に足を運んでいる。

人、領土、アイデンテイテイから考えるドイツ
共立女子大教授 西山暁義氏
・1950年代後半から始まる高度経済成長:ベルリンの壁による東独からの流入急減により、外国人労働者の需要が高まった。連邦政府は1955年のイタリアを皮切りに、スペイン、ギリシャ、トルコ、モロッコ、ポルトガル、チュニジア、ユーゴスラビアと協定を結び、その確保に努めた。
・2015年の総人口8,100万人のうち、21%にあたる1,712万人が「移民の背景」を持つ人々である。うち外国籍777万人に対し、ドイツ国籍を保有する者935万人である。地域的には96%が旧西独領に居住している。
・難民申請数の増加は1990年代前半のソ連、ユーゴなど東欧諸国の政治的不安定によるものと、ここ3年のシリア難民の増加である。
(9月16日 共立女子大学公開講座2017)

一つの中国をめぐる国際政治
共立女子大教授 浅沼かおり氏
「中台の主要データ比較」

中国 台湾 台中
人口 約13億人 2.350万人 (2%)
面積 960万㎢ 3.6万㎢ 0.4%
GDP 10.4兆ドル 5.300億ドル 0.5%
兵力 230万人 29万人 13%
貿易 対台割合 4.8% 対中割合 23%

・中台双方とも、中国は一つであるという点では一致している。一致していないのは、どちらの中国政府が正統な統治者であるかという点である。一国二制度、台湾は香港を見ている。
・先人の知恵:あいまいのまま、先送りがいいのではないか。
・台湾と国交のある国は20か国。バチカンを除く大半は国際的な影響力を持たない中南米や太平洋の小さな国々。
・蔡英文政権の支持率低迷。民主化が行きすぎて機能不全に陥ったという見方も一部にある。
(9月23日共立女子大学公開講座2017)

高齢社会における芸術文化の可能性
英サドラーズ・ウエルズ劇場 ジョス・ジャイルズ氏
ゴールド・シアター2016脚本・演出 ノゾエ征爾氏
・社会の高齢化は先進国に共通の課題であり、各国でシニア世代が参加するアート活動の気運が高まっている。超高齢社会に突入した今、未来に向けて芸術文化は何ができるのか、劇場は地域に何をもたらすことが可能なのか。
・先進的なプログラムを擁する英国のシニア層を対象とした活動の紹介。
・60歳以上のダンサーで構成されるサドラーズ・ウエルズ劇場専属ダンス・カンパニー「Company of Elders」は1989年の設立以来、踊り始めるのに決して遅すぎないことを証明し続けている。

・昨年12月7日さいたまスーパーアリーナで上演された「1万人のゴールド・シアター ロミオとジュリエット」を演出したノゾエ征爾さんの4か月にわたる取り組みと成果の報告。1600人の高齢者が参加した群集劇は故蜷川幸雄さんの遺志であり、さいたま芸術劇場の取り組みであった。
(9月21日さいたま芸術劇場 世界ゴールド祭キックオフ!シンポジウム)

折から北朝鮮問題、解散の大義、不倫騒動と世情騒がしいが、300人規模の教室、ホールを埋める老若男女に感動する。この種のテーマにじっくり向き合う人達がいて、その一員であることに誇りを覚える。
(2017.9.26)

宗谷本線、本当に必要ですか?

道北に音威子府という小さな村がある。旭川から北に130㎞、名寄からも50㎞ほど北に位置する日本一人口の少ない村である。
「おといねっぷ」と読む。地名はアイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていた事からの命名だという。

この小さな村の発行する広報誌が7月号で「沿線地域の皆さん、鉄道、本当に必要ですか?」と問いかけたというニュースが全国紙に掲載された。

いま村を南北に走るJR線は、旭川-稚内間260㎞の宗谷本線である。特急列車が日に3本、普通列車も上り下りが日に3本運行されている。しかしJR北海道は、名寄以北稚内までは輸送密度が極端に低く、今後単独で鉄道を維持することは困難と表明し、近い将来の廃線をほのめかしている。
普通、鉄道網が縮小されるとか廃止するなどという話には、町や村を挙げて反対運動が展開されるのが一般的だが、音威子府村のこの住民への問いかけは異例である。
経済性だけから言えば、北海道に残りうる鉄道路線はごく限られるが、それにしても音威子府村の住民への問いかけは今までにないもので、どんな声が上がるのかと俄然興味が湧いた。

そこで、村に電話して広報誌を送ってもらうことにした。
数日後、在庫切れのためコピーを送りますとの添え書きとともに村勢要覧や村のガイドマップなどが送られてきた。

さて「音威子府」にはこれまで三度行ったことがある。最初は音威子府と稚内をオホーツク海沿いに結ぶ「天北線」廃止のニュースを聞いて、そんなことになるなら、その前に車窓から猿払原野を眺めたいものだと、天北線に乗りに出かけた時。
二度目は道内のJNR完乗を目指していた時で、宗谷本線で日本海側を稚内まで行った。そして三度目は、日本の最北端ゴルフ場、稚内CCでのプレーのため旭川から車で走ったとき。昼飯を音威子府の食堂で取った。

いずれの場合も単なる通過客に過ぎず、特別この地に深い思い入れがあったわけではない。
だが、鉄道ファンにとっての音威子府は北海道の最北端へ伸びる鉄道要衝の街として、ここは聖地なのである。
しかし、かつて「住民の総意で守ろう天北線」とスローガンを掲げたものの、平成元年には鉄道廃止、バス転換が決まった歴史がある。そして30年後のいま、今度は宗谷本線がピンチである。

送られた資料によると、平成29年の音威子府の現状は次の通りである。

世帯数 497戸 (最大889 S40年)
人 口 784人 (最大4184 S25年)
一戸あたり 1.6人 (最大6.0 S15年)
音威子府駅一日当たり乗車人数 34人 (S40年代後半300人H15年以降100人)

こうした絶望的なデータの前で宗谷本線に関する施策や鉄道・駅についての利用促進策などを捻り出すのは難しい。しかしながら、これに関心を抱いた以上は何か提言書めいたものを作ろうじゃないかと、北海道大好き、鉄道も大好きの仲間3人が集まって、一夕議論した。原則論に終始し、あまり役に立つとも思えないが、こんな奇特な人もいるよと村の地域振興室に送付した。
以下にその要約を記す。

経済的に考えるならば、鉄路を廃止するしかないであろうが、この区間については以下の諸点に特別の配慮が必要である。

1 冬季に豪雪があり、路面が凍結するため個人が車を運転することに危険が伴うこと。
2 この区間の延長線上に稚内まで伸びる鉄路があり、廃線の影響はこの区間のみならず、他の地域にも及ぶこと。(夕張市が決断した夕張・新夕張間の廃線とは事情が異なる。)
3 稚内まで鉄路が繋がっていないと、人口35000人の稚内が孤立した形になり、この地区に影響力を強めつつあるロシアに対し、日本が弱い立場に立たされる。
4 全体的に橋梁や長大トンネルは少ないので、保線が比較的容易である。(廃止に決まった三江線が災害の危険性が高いのとは異なる。)

鉄道の存在価値は東日本大震災発生時の燃料輸送ルートで証明される。道路が麻痺する中、JRは日本海側ルートに貨物列車を走らせ、燃料等の物資を京浜地区から被災地に運んだ。
本質的には道路には際限なく税金を投入するのに、鉄道の赤字は一銭たりとも許さないという国の交通政策に誤りがある。

貴村のご発展とご健闘をお祈りいたします。
(2017.9.19)

日本新三大夜景

民進党の新出発に際し、期待と若干の危惧を書こうと張り切っていたのだが、またしてもお粗末な騒ぎが報道され、出端をくじかれた。従って今週は次元の違う「夜景」の話しに切り替えて「民進党」は後日にまわす。

夜景観賞士なる人物が日本に4,500人もいるなどとは全く知らなかった。その人たちの3年に一度の投票で、札幌・藻岩山展望台から望む札幌の夜景が、函館にとって代わってトップ3にランクインしていた。これまでの日本の三大夜景と言えば、稲佐山から望む長崎市の夜景、摩耶山からの神戸・大阪の夜景、函館山から望む函館の輝く街と海のコントラストと決まっていた。



それが藻岩山からの札幌市の夜景にその座を奪われていたのだという。知らなかった。函館市はかくなる上はと光の量や質を調査し、その座の奪回に努めるというから、来年10月の選定結果が楽しみになる。北海道全体の観光のためにも、これはいい話である。

ところで「三大〇〇」というのは、観光にとって絶大なブランド効果を発揮するのは、日本三景、日本三名園、日本三名瀑などで証明済みである。「三大」を選ぶ基準に法律があるわけでなく、広く人口に膾炙したものが、常識化したのであろうが、今週はことのついでに「世界」を含め、こんなものにまでと思われるものを拾い上げ座興に供すことにする。

ご存知なかったものが一つでもあることを願いつつ。

日本三急流 富士川 球磨川 最上川
三急潮 鳴門海峡 関門海峡 針尾瀬戸(西海橋)
三松原 三保 虹の松原(佐賀) 気比松原(福井)
三美林 青森ヒバ 秋田スギ 木曽ヒノキ
三奇橋 錦帯橋 猿橋 かずら橋(徳島)
三大盛り場 新宿歌舞伎町 京都新京極 大阪千日前

三大祭り 祇園祭 天神祭り 神田祭
三霊場 恐山 比叡山 高野山
三珍味 カラスミ(長崎) このわた(愛知) ウニ(福井)
三大そば わんこそば 出雲そば 戸隠そば
三大うどん 讃岐うどん 稲庭うどん きしめん
三大うちわ 房州 丸亀 京うちわ
三大花街 京都島原 江戸吉原 長崎丸山
三大ドヤ街 釜ヶ崎 山谷 寿町(横浜)
三悪人 道鏡 平将門 足利尊氏
三悪女 藤原薬子 日野富子 北条政子
三大石材 真壁(茨城) 岡崎(愛知) 庵治(香川)
世界三大火山 キラウエア ストロンボリ 三原山
三大銘木 ウオールナット チーク マホガニー
三大図書館 アメリカ議会図書館 大英図書館 フランス国立図書館
三大美術館 メトロポリタン ルーヴル エルミタージュ
三大オーケストラ ウイーンフィル ベルリンフィル ロイヤル・コンセルトヘボウ
三大スープ ボルシチ(露) フカヒレ(中) ブイヤベース(仏)
三大美酒 ワイン 純米吟醸酒 紹興酒
世界三大悪妻 ソクラテスの妻 モーツアルトの妻 トルストイの妻
三大美女 クレオパトラ 楊貴妃 小野小町
三大花粉症 スギ花粉(日) イネ(欧) ブタクサ(米)
最後に
世界三大無用の長物 ピラミッド 万里の長城 戦艦大和

「新幹線計画」は発表された当時、これらに次ぐ大バカと言われたが。
(2017.9.12)

日本の鉄道は27,000km

時刻表2万キロ (角川文庫 (5904))
鉄道紀行の名著『時刻表2万キロ』は宮脇俊三、1978年の作品である。まだ東北新幹線も上越新幹線も開業以前で、当時の国鉄旅客営業キロは20,796km。
しかし時代は、モータリゼーションの進展と、鉄道沿線には人口減少が目立ち始めていて、1987年の国鉄分割民営化によって、赤字路線の廃止が一挙に進んだ。
その後、北陸新幹線や北海道新幹線の開業といった明るい話題がある一方、昨年12月の留萌本線留萌ー増毛16.7㎞の廃止や、来年4月に決まった三江線江津ー三次108.1㎞廃線といった暗いニュースも続く。
こうなると「国鉄2万キロ」といったこれまでの尺度は、いまどうなっているのかと確認したくなる。そこでことのついでに私鉄を含め、最新の日本の鉄道総延長キロを整理しておくことにする。

🚝JR 19,899㎞
一見「国鉄2万キロ」と言われた40年前と変わらないようだが、これが大違い。この40年間で、廃線になったもの第三セクターに転じたものなど約4,000キロが国鉄から消えた。北海道の鉄路は40%が無くなった。加わったのは全国の新幹線約3,000キロ。それで差し引き▲1,000キロ。

🚝私鉄 7,713㎞
近畿日本鉄道(498㎞)、東武鉄道(463㎞)、名古屋鉄道(445㎞)の私鉄御三家と各地の路面電車、モノレールを含む総延長キロ。

🚞ケーブルカー トロリーバス 32㎞
鉄道事業法により鋼索鉄道として立派に鉄道と認められている。筑波山、髙尾山、生駒山などのそれである。

この三つの合計が27,644㎞。しかし、もとより私鉄やケーブルカーの完乗などという無謀な挑戦は考えていない。(2017.9.5)

『日本迷走の原点 バブル』永野健二著 新潮社

「安倍晋三内閣は空前の金融緩和政策をとりながら、アベノミクスと呼ばれるデフレ脱却政策を取り始めている。ありていに言えば“バブル”を意図的に作る政策である。必要ではあるが、危険な政策である。まかり間違えば、日本を破局に導く政策だと思われる」。
著者はバブル期、日本経済新聞社の証券部記者として、日夜人々の価値観を破壊するのに十分な出来事、誰もが真面目に働くことの割の悪さ、持てる者と持たざる者に広がる不公平感などをつぶさに見聞してきた。
そしてマスメデイアがもっとしっかりと報道していたらと自戒を込めて、「上げるべきところで金利を上げなかった日銀の罪、機関投資家に株を買うよう誘導した大蔵省の罪、不動産融資にのめり込んだ銀行の罪、会社の価値を収益ではなく、含み資産で計算した証券会社の罪」を詳述する。

しかし本書の特長は、バブル崩壊をめぐる反省と検証や金融政策をめぐる成功・失敗を評価したものではなく、「あの頃には書けなかったこと」、「あの頃には見えていなかったこと」、「今の時代になって明らかになったこと」を書いたことにある。
白眉は、日本全体が土地高、株高を前提に未来図を描き、美術品やゴルフ場の会員権が飛ぶように売れた異常な時代に跋扈したバブル紳士たちの行状とそれを支えた金融機関、行政の無定見、無節操ぶりである。
旧来のエリート層は、1980年代の後半、不動産市場、株式市場に登場した彼らの中の大物を名付けてエイズ(AIDS)と呼び、成り上り者を締め上げねば、というセリフが頻繁に発せられていたという。
ここで言うAIDSとは、
麻布土地 渡辺喜太郎
イ・アイ・イ 高橋治則
第一不動産 佐藤行雄
秀和 小林茂の面々である。
しかし著者は異端児、成り上りと蔑まれているこれらの人たちに親近感を抱いている。「問題があったとすれば、この人たちの野心や欲望に、何の反省もなく融資しづけた銀行やノンバンクではなかろうか。」と。「企業家精神にはいつも上昇志向とともに、ある種のいかがわしさが潜んでいるものだ」。とも言う。
本書にはこのほか、その頃マスコミを賑わせた加藤暠、高橋高見、小谷光浩、尾上縫らが登場する。現在をバブルの序章とするならば、我々は80年代の教訓をもう一度学ぶ必要がありそうだ。

ところで我が出身企業はバブルにどう向き合ったのか。
影響は無かったどころではない。積極的にバブルの渦中に飛び込んでいったのだ。当時の経営トップの判断誤りとそれを止められなかった幹部の責任と言ってしまえばそれまでだが、子会社を作って、マンション経営やボーリング事業に乗り出したのは事実である。
挙句失敗に終わるのだが、そこで生まれた巨額の負債は長期にわたって本業を圧迫し、在職期間中の殆どが無配会社であった事実がその痛手の大きさを物語っている。

話し変わって我がサラリーマン人生を語るエピソードの一つに“転職”がある。いままで語る機会がなかったが、間もなく80歳、書き残しておくことにする。
1961年の入社、最初の配属先は広報宣伝部門。勤務地が三重県の工場から東京に移り、仕事にも慣れてきた頃、世は高度成長の入口で、新興の企業は人材の中途採用に熱心だった。テレビのカラー放送が始まった頃のことである。特に宣伝部門の募集広告が多かった。
こちらは漸く一人前に仕事をこなせるようになってはいたものの、重電機メーカーの宣伝・広報になにかあき足らない、食い足りないものを感じ始めていた。まだ20代、身のほど知らずだったかもしれない。これから伸びそうな若い企業の宣伝部門に魅力を感じていた。密かに応募することを考えた。そして実行した。

その第一号が、本書でも取り上げられている「秀和」だった。秀和レジデンスのブランドで青山や外苑に高級マンションを建設する会社という以外に何もしらなかった。
面接に現れた小林茂氏(1927‐2011)とどんな会話をしたのか、全く記憶にないが、好感の持てる青年実業家という印象であった。のちにバブルの寵児になるなどは知る由もない。採用通知は来なかった。
次はマルマン。そうあのガスライターの。片山豊氏(1920-1997)には、なにか圧迫感と威圧感を感じ、こちらから積極的になれなかった。いま片山さつきの義父と知る。

最後にミサワホーム。木工プレハブの住宅メーカーとして成長が期待されていた。創業者の三沢千代治氏(1938-)のことはよく覚えている。
何を気にいられたのかは知らないが、会社にも自宅にも電話があって、誘ってくれた。この時は迷った。
意を決して親父に相談した。親父は息子がそんなことをしていることにちょっと驚いたようだったが、“今の給料の倍払うと言ったら考えてみろ”とだけ言った。
歴史にIFは禁句だが、1967年創業、1971年上場のミサワホームは当時、人材を求めていた。いま同社は年商5,000億円の優良企業。
もしあの時転職していたら、その後のサラリーマン人生はどんなものになっていたであろうか。 成功したか、失敗して路頭に迷ったか。 (2017.8.22)

濫読

最近本を読んでいない。これではいかんと系統立てずに手当り次第読む。


海と生きる作法 漁師から学ぶ災害観 川島秀一
本書の題名は「海に生きる」ではなく、「海と生きる」である。三陸のリアス式海岸は多くの魚が寄り来る天然の漁場であるが、その海岸は津波も寄り上がる地勢を有している。
津波に何度も来襲された三陸沿岸に生き続ける漁師は「海で生活」してきたのではなく、「海と生活」してきたのではないか。著者はそう考える。
海と対等に切り結ぶ関係を持っていなければ、今後もなお漁に出かけようとする心意気が生まれるはずがない。机上の高台移転計画や防潮堤の安全神話への根源的な批評でもある。


フクシマの荒廃 フランス人特派員が見た原発棄民たち アルノー・ヴォレラン
フランスの日刊紙特派員が福島事故の除染、廃炉作業に携わる労働者たちから原子力村の面々に至るまで、ナマの声をインタビューと取材でまとめたルポルタージュ。
廃炉現場に赴いた著者は「何も生産しない、何も建設しない」、引き算の労働を営々と続けねばならない無数の労働者に衝撃を受ける。
事故原因の解明さえ終わらぬうちに、再稼働と輸出を始めようとする日本の姿勢を批判する。


ゴーストマン 時限紙幣 ロジャー・ホッブズ
たまには文庫のミステリーをと「このミステリーがすごい!」で3位になった犯罪小説を読む。舞台はアトランテイックシテイ、シアトル、オレゴン、クアラルンプールと目まぐるしく、それに過去と現在が並行する。
最近ではカタカナの登場人物の名を覚えきれず、こいつは悪い奴か、いいやつだったかと何度も頁をひっくり返す。もうこのテの小説はムリだ。


騎手の一分 競馬界の真実 藤田伸二
当時まだ41歳、ダービージョッキーの藤田がなぜやめたんだろうと思っていたが、4年もたつと忘れていた。ところが平積みされた新書版を書店で見つけた。どうやら早々と引退した理由はエージェント制度を導入したJRAの体質に嫌気がさしたらしい。
いままでは、騎手自らが何とか強い馬に乗せてもらいたいと厩舎まわりをして、いつどの馬に乗るのか自分でスケジュールを管理していた。
そうした努力が実って馬主や調教師、厩務員、調教助手などと良好な関係を築いてきたのだが、エージェント(騎乗依頼仲介者、競馬専門紙の記者など)の登場によって、騎手と調教師の関係はすっかり希薄になってしまった。だから騎手は力のあるエージェントと契約を結ぶことが勝利の近道になってしまい、「馬七分人三分」と言われた世界が、いまや「エージェント十分」と言っても大袈裟でないと怒る。彼はエージェントに媚びて、頭を下げることなど真っ平だという。その他もろもろ、いまある問題を見て見ぬふりをするJRA がすべて悪いと決めつける。


唐牛伝 敗者の戦後漂流 佐野真一
60年安保闘争時の全学連委員長、唐牛健太郎の数奇な生涯を描くノンフイクション。

・1937年  函館生まれ
・1956年 北大教養部入学
・1959年 全学連委員長就任
・1960年 4月国会突入を謀り逮捕、北大除籍
6月樺美智子さん国会デモで死亡
・1962年~82年 田中清玄。堀江謙一。新橋「石狩」。与論島。紋別で漁師。徳洲会。
・1984年 47歳で死去

早すぎた死だが、我々世代のある種の英雄。樺さんが死亡した6月15日、彼は獄中にいたが、当時の我々立教生は先鋭的に対決する警官隊とデモ隊を遠巻きするような位置にいた。死者が出たというのは帰宅後、テレビで知った。あの頃は学校に行っても授業はなく、連日丸の内線の地下鉄で清水谷公園に行き、国会・銀座方面へのデモに参加していた。
新聞には慶応生や立教生までもデモに参加したと報じられたが、明治、早稲田、中央などの精鋭の前ではおとなしい存在であった。

佐野真一のノンフイクションは、『東電OL殺人事件』を畢生の名作と考えているが、数年前、橋本徹の人物論で一時挫折した。久しぶりの本作には、同時代の政治家、財界人、右翼、左翼、芸能人、マスコミ人が多数登場して飽きさせない。
(2017.8.2)

日本百低山

去年から8月11日は「山の日」という国民の祝日になっていたそうだ。学校も企業も夏休み真っ只中で、祝日が増えてトクしたという実感は薄いだろう。
「海の日」があるのだから、祝日のない8月に「山の日」を作ろうと、やたらこういう事にだけは熱心な、どこぞのお偉いさんたちの発案らしい。
しかし今や、こんな日をわざわざ作らずとも、身の丈知らずの中高年と山ガールが夏山にわんさと押しかけ、その内、事故のニュースが新聞を賑わすだろうと思っていた矢先、名著『日本百名山』ならぬ『日本百低山』(日本山岳ガイド協会編)の存在を知った。

「山は富士山やアルプスだけじゃない、高けりゃいいってもんじゃない。日本人はそれぞれが心にふるさとの山をもっている。」として、47都道府県にある1,000m内外の名低山100座を選び出した。
ざっと見ると、丹沢の大山や箱根の明神ケ岳、伊勢の朝熊山、京都の大文字山、広島の弥山など、登ったことも知っている山もあるが、いずれも気軽なハイキング気分で行ける山ではない。

そこで今回は、極め付き「日本一低い山」を紹介して、盛夏の清涼剤としていただくことにする。朋友、徳島の吉田正二くんからの情報である。
『徳島市南部の田圃の中にある弁天山(標高6.1m)が日本一の低い山である。宮城県の日和山(3m)、大阪の天保山(4.53m)が、こっちの方が低いと主張しているが、それらは人工の築山で、自然にできた山ではない』。
写真も付けられている。『道のわきの朱色の鳥居が登山口。登山口から歩いて10秒、走れば5秒で頂上に達し、そこに水の神である弁才天が祀られている。登山口の横のラーメン屋には登頂証明書が置かれていて、記念品やグッズも売られている。しかも弁天山保存会なるものが、この登頂証明書を発行していて、先年、登頂20万人を記念してセレモニーが開かれた。標高6.1mにちなんで、毎年6月1日には山開きがある。“日本にこれ以下はない。あとは昇るばかりでエンギがいい”と山頂結婚式まで行われている。』とある。
最寄り駅はJR牟岐線の地蔵橋駅だそうだ。信じ難い思いもあり、確かめに行きたいのだが、今のところその計画はない。 (2017.8.14)

ダイアン・レインとミシェル・ウイリアムズ

ふたりの女優のその後の作品をまっていた。

ダイアン・レイン Diane Lane 初見は『ストリート オブ ファイヤー Streets of Fire』(1984年 監督:ウオルター・ヒル)、その時19歳。
蒼白いスポット・ライトを全身に浴びて、セクシーなボデイ・ラインを浮かびあがらせる~🎶 ロック女王に扮したダイアン・レインはとても美しく刺激的であった。

当時、関西出張が続くなか、谷間の日曜日、大阪の劇場で独りポツンと見た。
ステージが最高潮に達した頃、突然黒い制服に身を固めたストリート・ギャングが乱入して彼女をさらう。そこへ西部劇のヒーローを思わせる主人公が単身ふらりとやって来て、市街戦あり、決闘ありの後、彼女を救い出し何処へともなく町を去って行く…。
まさに副題(A Rock &Roll Fable)どおりの寓話である。

「暴力に支配された故郷の町に舞い戻った男が、悪を叩きのめして再び去って行く…」。これまで作られた凡百のアクション映画も西部劇も、これをテーマにするが、この作品はひと味違った。

ロックが響く中、夜の暗く濡れた舗道、所どころの水たまり、深夜のロック・コンサート場、エキサイトする観客、ライトを浴びて登場するロックの女王…、一瞬たりとも緊迫感を失わない無駄のない演出、ウオルター・ヒル監督のシャープな腕の冴え。この年のキネ旬外国映画部門の7位。
主人公はマイケル・パレ演じるヤサ男なのだが、ダイアン・レインがずっと気になっていた。その彼女が52歳になって、『ボンジュール、アン』に登場した。
夫の仕事仲間とカンヌからパリへ車で向かうことになったダイアン・レイン。7時間のドライブのはずだったが、美しい風景、おいしい食事とワイン、ユーモアあふれる会話、素敵な寄り道…。微妙に
変化を始めた女の気持ち。

30年以上も前に見たダイアン・レインは、我が長女に置き換えれば大学に入学したての一年生。それが今や自分の娘の結婚を考える女性に変貌している。だから30年ぶりに見たダイアン・レインには当時の面影はなく、額のしわ、目じり、口元の小皺に50代の普通の女性を感じる。その彼女が、“フランス男には気を付けろよ”の亭主の言いつけを守りながらも、二日間の旅で心は広がり、次第に惹かれるものを感じる。しかし最後まで何事もおこらない。
原題の『PARIS CAN WAIT』は”パリはほおっておいていい“と訳せるらしい。映画の惹句「人生って、まだまだステキ」が素直に同感できる羨ましい大人の関係。俺にもこんな機会があったらなあ。

ミシェル・ウイリアムズ Michelle Williams 1980年生まれ 37歳、
6年前に見た『マリリン7日間の恋 My Week with Marilyn』が忘れられない。
マリリン・モンローの秘めたる実話を演じたミシェル・ウイリアムズの美しさは比類がなかった。アルコールと処方薬への依存、情緒不安定と遅刻の常習者として芳しからぬ評判のモンローが、あるとき7日間だけ撮影中の助監督と郊外に旅へ出た。モンローはこの若く誠実な助監督の前では虚像を捨てて、純粋で本当に可愛い女になれる。
この年のゴールデングローブ主演女優賞の受賞も当然と思わせるモンローになりきった演技。うっとりするほど愛らしく美しいモンローの何処に世間から指弾されるところがあるのかと思えるほどであった。

そのミシェル・ウイリアムズが『マンチェスター・バイ・ザ・シー Manchester by the Sea』に出た。兄の遺言で16歳の甥の後見人となる主人公の元妻を演じるのだが、さすが女優、モンローの面影はなく難しい役どころを好演した。作品としては今年のアカデミー賞の脚本賞、主演男優賞を受賞した心地よい良心作で、ミシェル・ウイリアムズの輪郭のすっきりした美しい顔を再見できて極めて満足。
田谷英浩(2017.7.16)

米内義人さん逝去

P1020889

6月13日、教育映画作家米内義人さんが亡くなった。享年84歳。神鋼電機の広報時代、今も残る科学映画の名作『振動の世界』、『水と農業』の企画者とシナリオ・ライター、監督という立場で知り合った。
爾来45年、映画を語りあえる数少ない友人として交際を続けてきた。しかしトシには勝てなかったようで、春先の便りでは“盛り場へ出かけて映画見物などは夢のまた夢、専らDVDやテレビ放映の映画を見るだけの生活”とあった。しかし同封されていた「この一年で見た映画のリスト 題名と私の評価」には289本の作品名と評点が記されているから、映画好きといっても尋常ではない。根っからの映画人であった。

そして先日、既に用意されていたのだろう、父が生前に書き残しておりました手記を本にまとめましたとご長男から『映画と私』と題する160頁の小冊子が送られてきた。
それを読むと、彼の映画熱は中学一年の時に点火されたようで、「読書に濫読があるように、私は映画を見まくった。高校生になってからは、将来は映画をやるんだと決めて、映画にのめり込んだ。映画代に事欠いて昼飯代を流用し、それでも足りないので、映画館に頼み込んで看板絵を描かせてもらった。それで町の映画館の出入りが自由になった」。とあるから、ただの映画好きとはレベルが違っていた。

かくして日大映画科、学研視聴覚部、東映教育映画、桜映画、東京文映でキャリアを積み重ね、1980年以降はフリーの作家として、教育、文化映画の脚本家、演出家として名を成した。
この間、制作に携わった作品数は数百本、受賞作も数知れない業界の有名人であった。同書によれば、自身の代表作として1978年の『水車から電気へ』を挙げている。キネ旬は「日本が急速に近代化する過程を鮮やかに描き出して、文化の許容と消化という日本的な特色をとらえることに成功している」と評し、科学雑誌『自然』は「これ以上簡潔に産業動力の変遷を描くことは思いもよらない。ぐいぐい迫ってくる」と激賞した。この年は他に、地方病撲滅との闘いを描いた異色作が、日本の寄生虫医学史の感動の記録と絶賛され、科学映画祭において当時の皇太子から賞状を受けたとある。

短篇業界は劇映画に比べれば地味な世界であるが、彼のような優れた作家と一時期一緒に仕事ができ、その後もお付き合いが続けられたのは幸せであった。
まだ30代も前半の頃、企業PRの一環として、“後世に残る産業映画”を作るとトップを説き伏せて成功作を生んだことはサラリーマン時代最大の思い出である。この時の脚本・演出が米内義人さんで撮影は名カメラマンの故豊岡定夫氏であった。当時のことがこう書かれている。

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振動の世界 1971年
神鋼電機の大作が入った。自社の振動発生器のPRを超えて、振動の科学の現状を捉えようと東大生産技研の亘理先生を監修者に、その人脈で建築、鉄道、船舶、車両などにカメラを向けた科学映画という企画はたぶん田谷さんの発案だろう。
たまたま各所で大規模な振動実験が行われるという幸運に恵まれて、撮影対象は贅沢なものになった。撮影は豊岡氏。科学映画の撮影技法のすべてを活用して、振動を見事な映像に捉えて、その年の日本撮影協会の最優秀撮影賞を獲得した。科学映画祭では最高賞、教育映画コンクールで金賞、シカゴの科学映画祭で創造芸術賞、リオの産業映画祭では最優秀監督賞をもらった。産業映画祭で個人賞は前代未聞か。

水と農業
水と農業 1974年
神鋼電機のスプリンクラーのPR映画という枠をこえて、日本農業の伝統的な水使いの知恵と明日の農業の展開を描く大作。撮影、編集のどの段階でもトヨさんと大揉めした。私は文化史、トヨさんはミクロ。心配した田谷さんがしばしば銀座で二人を呑ませてくれたが、悪酔いばかり。しかしキネ旬は「ポイントを水に絞った狙いの面白さが、構成の巧さと素晴らしい画面によって明快に示されて、見事な成果を挙げた」と最大限に褒めてくれた。キネ旬の第4位、教育映画祭の文部大臣賞。俺の映画作りは間違っていなかった!得意の絶頂だった。

あれから45年、かつての仕事仲間がまた一人去った。
田谷英浩(2017.7.28)

信州須坂と稲荷山の旅

訪ねてみたい古い町並み、覗きこんでみたい横丁をリストアップしてある。出所は紀行本であったり、TVの旅番組であったり、友人からの情報であったりする。
今回はそのひとつ、信州須坂と稲荷山を訪ねることにした。幸い長野市郊外に最近セカンドハウスを構えた友人から再三遊びに来いと催促されている。

須坂 エッセイスト池内紀『ニッポン周遊紀 町の見つけ方、歩き方、つくり方』(青土社)には、あまりなじみのない30の町が登場する。その中でこれまでに行ったことのある町は長野県大町、新潟県村上、福島県棚倉などの8つの町。広島の因島土生や山口の周防大島などになると食指は動くが実現性に乏しい。

須坂はクリと葛飾北斎で有名な隣町小布施に知名度で劣るが、今も博物館として残る近世の豪商田中本家を見たかった。
旧須坂藩は一万二千石の小藩であったが、北信濃一円の繭がこの町に集められ、絹糸に生まれ変わり、街道伝いに高崎、横浜へ届けられた。だから近代シルクロード起点の町だと主張する。多分、江戸中期以降繭蔵をもつ町家が軒を並べていたのであろうが、その中から大商人が誕生した。そのNO1がいま豪商の館田中本家博物館として公開されている。

田中本家の敷地は3,000坪、100メートル四方を20の土蔵が取り囲んでいる。初代田中新八が穀物、菜種油、煙草、綿、酒造業を始めたのは1733年。それが11代目の現当主まで屋台骨を守ってきたと言うのだから立派である。
土蔵を改装した展示館には、江戸中期から昭和までの田中本家代々の生活用品が整然と陳列されていて、日本文化を守り伝えてきたと言っても大袈裟ではない。東京の博物館並みの質と量である。

稲荷山 建築家で歴史的な町並みの保存運動に尽力した故吉田桂二の『なつかしい町並みの旅』(新潮文庫)には26の町並みが紹介されている。その中で行ったことのある町は、砺波平野の井波、丹後半島の伊根、中国山地の吹屋などの6か所。青森の黒石や天草の崎津などはリストにあげてあるが、果たせていない。

「路地や裏通りの蔵また蔵の連続に一驚した。」と同書にある。稲荷山には繭や生糸、絹織物を扱う商都の面影が色濃く残っているのであろう。それを見たかった。
しかしこの記述から35年、探し方が中途半端だったかもしれないが、
蔵の連なりは部分的なものに変貌しており、町の中央部を通り抜ける街道が途中で折れ曲がる「鍵の手」は確認できたものの、「伝統的建造物群保存地区」を認識するまでにはいたらなかった。

この後は姨捨の棚田「田毎の月」を地平から眺め、標高551mのJR姨捨駅ホームからは200m下方に広がる善光寺平の大景観を満喫した。
複雑に張り巡らされたスイッチバックのレールをうっとりと眺めたのは無論である。
田谷英浩(2017.7.10)