市議選余聞

黒川滋市議の二期目に向けた挑戦の過程で、明らかに選挙中毒と思われる高齢のスタッフが現れ始めた。
日頃はあまり市政に関心を持つこともなく、孫の相手や連れ合いの病院通い、買い物で過ごしていた人たちの日常に変化が生じたのだ。
朝のこまごまとした家事は後回しにしても、とりあえず後援会事務所に顔を出さないと、その日一日落ち着かないという気分を持つ人が次第に増えた。
日頃はベランダで日向ぼっこか昼寝に当てていた時間帯を、事務所で過ごすことが習慣になり始めた。
こういう人たちは事務所の中でじっとしていない。慌ただしく出入りする議員本人やスタッフのために雑用を見つけかいがいしく働き出す。お茶を入れる、話し掛ける、愚痴を聞く、噂話をする、人生経験は豊富なのだから言うことに間違いはない。そして自分の役割に満足する。
そして何よりも彼ら彼女たちはヒトを知っている。長い人で60年、短い人でも20年は朝霞に住んでいるので、その人脈は凄い。
これまでは地縁、血縁を優先して投票していたが、基本的には誰に入れても、何も殆ど変らないことも知っている。
だから今回はこちらの誘いを天命のように受けて、田谷さんのためにと動いてくれる。
育児や子育て、アベノミクスに無縁の若い人は忙しくて頼りにならない。スタッフを高齢者に切り替えて作戦は大成功。

一方、選挙戦終盤に入ってからは、選挙カーから手を振ることによって、首、肩の痛みが消えた女性スタッフや選挙カーに頻繁に乗り降りする内に腰痛が取れたという男性スタッフも現れた。
これらを観察すると、選挙は高齢者の生きがい探しに役立ち、若いスタッフの健康管理やリハビリにも役立つことが分かる。
さらに一週間のやかましい連呼に耳をふさげば、選挙というものは地域の印刷屋、看板屋、自動車屋、飲食店、はてはウグイス嬢にも特需をもたらすものであることを実感する。

閑話休題

さてその選挙であるが、本人の四年間の地道な議員活動が評価され、1,400票を獲得し、定員24人中の12番目で当選した。
選挙戦終盤、他陣営各議員のこれまでの実績、まちの噂、勢い、雰囲気を勘案し、1,430票、11位当選と予想していたので格別の驚きはない。
市長提案がすべて通る与党体制の中で、無党派を貫くのは大変だろう。時として投げ出したくなることもあろうが、45歳の働き盛り。唯一の知性派、理性派議員として市民は評価したのだから、なお一層頑張ってもらいたい。

今回の選挙で気になるのは朝霞市民の市政に対する関心の低さである。かつての自分を棚に上げて言うので気が引けるが、投票率34%は全国自治体でもワーストクラスの低レベルであるし、NHKの受信料不払い運動のみを訴えた妙な泡沫候補を当選させるとは、朝霞市民の民度の低さを示すものとして聊か恥ずかしい。

黒川市議本人は、市内を歩き回った選挙期間中「明白な高齢者の増加」と「認知症患者を抱える世帯の増加」を痛感したという。
しかしこれらは取りも直さず、今後の朝霞の取り組むべき重要課題で、彼の得意分野でもある。
こういうテーマには与党も野党もあるまい。中長期計画のキャッチフレーズ「住み続けたいまち朝霞」の実現に向けて、議会も行政も真剣に取り組んでもらいたい。(2015.12.16)

国内ゴルフ場350コース到達

ゴルフ仲間にハンデイキャップを自慢する人はいても、プレーしたコースの数を競い合う人はいない。だから350コースでプレーしたことが凄いことなのかの判断材料はないが、現役当時かなりゴルフに入れ込んだ仲間でも、せいぜい100か所、多くても200か所のようだから仲間内では俺が一番と思うことにする。
ただしゴルフにおいてロウハンデを目指すことなく、ゴルフ場の数を目標にしたのは明らかに邪道と言うべきで、このことで羨望の眼差しや尊敬を集めることはない。

全国に2,000コース以上も存在するゴルフ場を完全制覇するなどと考えたことはなく、自慢できるのは全都道府県でのプレーと最北端から最南端に至る国土の一番端っこでプレーしたことであろうか。
統計には1957年(昭和32):116コース、1975年(昭和50):1,000コース超え、2002年(平成14):最多2,460コースとある。
ただしバブル経済の崩壊とともに、この年をピークに閉場するゴルフ場が増え始め、現在営業しているのは2,300コースくらいと見るのが妥当のようだ。
さてこうした中で350コースに到達した。この区切りのいい数字を演出してくれたのはNT-3の仲間たちで、12月10日、由緒ある名門コース「日光カンツリー倶楽部」がその舞台となった。
当日は冬には珍しい無風快晴の小春日和。
ここは男体山を背景に日光連山が取り囲む昭和30年開場、井上誠一設計の名門コースである。559ヤードのロングは4打でやっと辿り着く長さだし、ショートも180ヤードを超えるものばかりで、腕自慢のNT-3といえども容易にワンオンしない。
二人のキャデイを引き連れた歩きのスタイルは本格的だが、電動カートに慣れた身には結構きつい。
しかし7,000ヤードを歩いて廻ったゴルフスタイルは疲れの中にも充実感を覚えたのも事実である。

実のところは区切りのいい、今回の350コースを最後に引退を仄めかしているのだが、仲間は容易に承知してくれそうにない。
しかも悪いことにこの「日光」がゴルフの魅力を再び思い出させたのも事実で、決心がぐらつきそうで不安である。
(2015.12.15)

ハードボイルドの第一人者逝く

小鷹信光さんが12月8日、膵臓癌のため亡くなった(79歳)。新聞報道によれば今春に癌が発覚したが、すでに手術ができない状態にまで進行、仕事に集中できないと治療を放棄して緩和ケアのみを受けていた。最後まで自宅で過ごし、“なすべきことはすべて終えた”と言ったという。まさにハードボイルドの第一人者に相応しい最期である。

小鷹さんとの接触は、今は亡き須永誠一君の紹介から始まった。二人は早稲田大学ミステリークラブ時代の仲間で、こちらが「頼れる大人の会」の講師探しに奔走していた頃に紹介を受けた。
しかしこの世界で超のつく有名人が果たして我々のような小さな会に来てくれるだろうかと最初は半ば疑っていた。ところが挨拶に伺った所沢のご自宅でも、須永君は本名の「中島クン」を連発していて、二人は極めて親しい間柄であることが分かった。

さてその所沢のご自宅であるが、これには吃驚を通り越して度肝を抜かれた。一万冊を超えるという1950年代からのアメリカのミステリーを中心にしたペーパーバック(パルプマガジン)、アメリカ映画の関連図書とプログラム、ポスターの山、膨大なゴルフ雑誌とコレクションの数々、しかもそれらすべてが英語版。マニア垂涎のお宝が所狭しと、しかも整然と並べられている。まさに図書館の閲覧室。この中に数日居続けたとしても飽きは来ないだろう。小鷹さんはそんな中からビンテージものを取り出し、嬉しそうに解説してくれるのだが、こちらはハメットの『マルタの鷹』、チャンドラーの『大いなる眠り』を翻訳本で読んでいる程度で全く相手にならない。
しからばゴルフではと、“日本の都道府県全部でプレーした”と宣言してみたが、“俺はあと二州で全米制覇だ”と言われ全く歯が立たない。挙句、“アメリカにはアリゾナ州、ニューメキシコ州、ユタ州、コロラド州の州境が一点に集まる「フォーコーナーズ」というところがある。俺はそこで麻雀をやった。”と四州の各州に一人一人が陣取って雀卓を囲む写真を見せられてギャフン。世の中にはもの凄い人がいるものだと感銘を受けた記憶がある。

こうしたご縁をきっかけに、その後「頼れる大人の会」や「企業OBペンクラブ」での講演をお引き受けいただいたほか、紀伊国屋での講演会、代官山蔦屋でのトークイベントなどで何度かお会いした。講演会の帰途、酒を呑まないクルマ好きの先生にウチまで送ってもらったこともあったが、昨年10月お会いした時には“まだまだ元気だよ”と笑顔だった。しかしそれが最後になった。

「ハードボイルド」とはそも何ぞやを記して小鷹信光さんへの追悼としたい。ハードボイルドとは直訳すれば、固茹で玉子。俗語では食えない奴、手強い奴を意味し、その後、見掛けだけはタフな奴、突っ張った奴、鼻っぱしの強いゴロツキとなり、現代では「情け知らず」、「冷酷」な探偵ものの代名詞となった。
ハードボイルド小説はダシール・ハメットの「マルタの鷹」(1930)を嚆矢とするが、日本に輸入されたのは1946年。この年が日本のハードボイルド元年と言え、双葉十三郎氏が「ハードボイルド゙」というカタカナ英語を用いてレイモンド・チャンドラ―の「大いなる眠り」を紹介した。

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最後に小鷹さんの挙げるハードボイルド小説№1は
マルタの鷹

映画は
三つ数えろ
役者はハンフリー・ボガート。襲撃映画(ドロボー映画)

ベスト3も挙げておく。
アスファルト・ジャングル(1950 ジョン・ヒューストン)、

現金に体を張れ(1955 スタンリー・キュブリック)、

男の争い(1955 ジュールス・ダッシン)。

(2015.12.14)

裁かれるは善人のみ

近年で最も映画鑑賞の少ない年になりそうである。年内に公開予定されている洋画のラインアップに食欲の湧くものはなく、今年は30本台で終わることは間違いない。
12月を待たずにベストワンは何だろうかと考える。挙げるとすればロシア映画『裁かれるは善人のみ』(原題:Leviathanアンドレイ・ズビャギンツェフ)であろうか。


ロシア北部の荒れ果てた自然に囲まれた小さな町が舞台。そこで起こる土地再開発をめぐる警察、裁判所、教会の権力癒着の構図は世界共通にも思えるが、まだまだ民主的とは言えそうにないロシア社会の息苦しさが重層的に伝わってくる画面である。
砂浜に横たわる朽ち果てた船や鯨の遺骸、北極圏で撮影されたという映像は美しいが、極めて苛烈。
権力者と司法の癒着や聖職者の堕落といったテーマは都会を舞台に、過去いくつも作られてきたが、この荒涼とした大自然の中での人間の闘いとしたことで作品を成功させた。

スリラーでもあり政治批判劇でもある。しかし最後まで正義が勝利することは無い。あまりに救いの無いストーリーに欲求不満のまま劇場を出る。ロシアでは自国を貶めているという批判もあり、公開の是非に及ぶ議論があったそうだ。
作中ガブ呑みされるウオッカと共に記憶に残る作品ではある。

ここまで書いたところに、イタリア映画『ローマに消えた男』の評判が入ってきた。市議選騒ぎが収まり次第見に行くことにする。(2015.11.30)


いささか無責任な朝日の社説

11月19日、「赤字の鉄路 地域の知恵で足守れ」という聊か無責任な社説が掲載された。廃止が予想されるJR三江線を論じているのだが、高齢者に一般人と同じ土俵で相撲をとれと言っているようなもので少々酷である。
「地元はとにかく存続をと訴えるだけでなく、地域に必要な足は自分たちで守るという意識が大事である。」と宣うが、地域で守れなくなったからこそ問題が顕在化しているのではなかろうか。
人口減少、高齢化社会、極端な過疎化の進む地方において、鉄道事業はどうあるべきか、公共交通はどうあるべきか、国全体で考える必要のある重要課題である。

(石見川本駅に停車中の列車)

「三江線」も多分その昔、我田引鉄で建設された路線であろう。それが誰かは知らないが、1975年に全線が開業した頃には、既に車社会に入っていて、利用はもっぱら通学の高校生が主体になっていた。現在ではJR全路線中、輸送密度最下位の路線になっている。それを地域の知恵で守れ は酷というほかない。

JRの全線に乗っているので、むろんこの線にも乗った記録は残っている。しかし名所、旧跡、観光地といったものに縁遠い「三江線」には、車窓をしかと眺めた記憶がない。
だいたい「三江線」と聞いてどのあたりの線か見当のつく人は少ないだろう。であるから少しデータを提供し、いかに地域の知恵だけでは足を守ることが難しいかを証明する。


「三江線」は島根県江津市と広島県三次市を結ぶ路線延長108.1㎞、全線非電化のいわゆるローカル線である。中国地方最大の川「江の川」に沿って長い期間をかけて建設されたが、全通した頃にはモータリゼーションの時代に入っていて、利用は地域住民の移動需要のみであった。
現在の主な沿線自治体の人口は、
江津市 24,700人
三次市 54,700人
川本町  3,500人
三郷町  4,800人
邑南町 11,000人 とされ、おおよそ10万人。我が朝霞市一市に及ばない。
乗客がいないから運転本数が減る、本数が少ないから鉄道に乗らない。悪循環も重なって、現在江津→三次間を直通する列車は日に三本。それも6時発、15時発、16時30分発。これで3時間半かかる。これでは乗る人も稀になる。
これまでは沿線の代替輸送道路が未整備ということで廃止対象から除外されてきたが、最近では、江津道路(17.6㎞)、浜田自動車道(55.3㎞)、中国自動車道(37㎞)を経由すれば、江津から三次まではおよそ110㎞、一時間半で移動できるようになった。もはや鉄道に勝ちみはない。
残るは江の川に張り付く村々の移動需要であるが、現在の三江線ダイヤを見る限り、沿線住民はすでに鉄道を当てにしていない。

都市近郊の鉄道復権、とりわけ路面電車の見直しが公共交通の今後のあり方としてテーマに上っているが、あくまで大都市近郊の話しである。鉄道が地域のシンボルの時代は終わった。東日本大震災を機にBRT(バス)で復興の足掛かりとしている地方も多い。

鉄分が人一倍濃い人間が言うのも妙だが、赤錆びたレールが放置されたままの廃線跡を見るのは辛い。バスでもいい、予約制の乗合タクシーでもいい。要はその地方の現状にあった公共交通のあり方を自治体が先頭に立って考え、国はそれを支援すべし。
地方創生とか地方再生とか、うまい言葉やまやかしの日本語は要らない。われわれは今現に起きていることを共に考えるべきである。(2015.11.20)

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ぶらり三江線Map1
ぶらり三江線Map2
ぶらり三江線Map3

ANAエンジン整備工場見学会

頼れる大人の会の定例行事「大人の社会科見学」秋バージョンは『全日空原動機整備工場見学会』と銘打ち実施された。アレンジャーは元全日空商事の幹部U氏。
ANAやJALの格納庫内での機体整備見学会は以前から行われていて、予約が半年先まで埋まる人気メニューである。しかし知的好奇心のかたまり「頼れる大人」はそんな初心者クラスでは満足しない。機体などは見飽きている!エンジン整備の状況をこの目で見たい!
そしてそれを実現できる会員がいることが我々の自慢でもあり、何よりの強みである。先方からは一般立ち入り制限区域に入るので本人確認が必要となる。運転免許証かパスポートを持参せよとの達しがある。いよいよ普通の人は立ち入ることも、見ることも出来ないエリアに入れるのだと緊張の内にも、若干の優越感も感じられウキウキする。

11月9日、京急の終点羽田空港国内線ターミナル駅でANA社員の出迎えを受け、空港内の業務バスでANAエンジンシステムビルへ案内される。ビルの入り口には“ようこそANAEMBへ頼れる大人の会様”のボードが掲げられていて、面映ゆいまま会議室に通される。
挨拶もそこそこに、パワーポイントによるエンジン整備の工程が流れるように説明され、その後ヘルメットを着用し、いよいよエンジン整備工場へ入る。
天井の高い巨大な工場は極めて清潔で静粛、高さ5mにも及ぶ巨大なエンジンがひときわ目立つ。ものを造る製造工場ではないとはいえ、耳をつんざく機械音もコンプレッサー音も無く、もちろん火花も散っていない。工場内では意外にも大勢の人が働いているのだが、声高な会話や議論も吸収されてしまうのか、全く聞こえてこない。
一定の飛行時間を終えたGE製、P&W製、ロールスロイス製各社のエンジンが搬入されたのち、分解、洗浄、検査、修理、組み立て、試運転の一連の工程を通って航空機に再び装着される。厖大な工数と時間。機械化された無人の製造ラインとは全く違い、それぞれの作業工程に人が張り付く人間臭い職場である。
人間が仕事をしているという確からしさを実感する。航空機のエンジン部品は20,000点を超えるそうだが、その微細な一点一点がこういう形で整備されていることを知りえた貴重な体験となった。(2015.11.17)
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能登から消えたもの

10月26日-28日、能登を慌ただしく往復した。とはいえ行きも帰りも北陸新幹線というような鉄道ファンの風上にもおけぬ行為はしていない。
墓参が年に一度の恒例行事になって、もう能登について書くべきことは少ないが、それでも今年特徴的だったのは、

奥能登から「塩」が消えた
揚げ浜塩田


朝ドラの人気をまざまざと見せつけられた。能登の土産を揚げ浜塩田の「塩」とやちや酒造の「前田利家公」に決めているが、肝心の「塩」が店頭から姿を消していた。
曽々木海岸の角花さんの塩田を何時ものように訪ねたが、“すまねエーな!今年売るものはもうないよ。作業は今月でおしめえにしたから、来年の夏までは出来ねえよ”とつれない返事。

角花さんは「まれ」で、塩田に海水を撒くシーンを役者に指導したこの道何十年のプロだが今は手持無沙汰。この人、来年の夏まで何をするのかしらと余計なことが気になる。
早朝車を飛ばしてやって来た、とても手ぶらでは帰れない。気は進まないが、最近海岸べりに出来た観光塩田みたいなところを覗くが、そこでさらに驚いた。明らかに観光客のお土産用とわかる塩の小袋が400円。しかもお一人様一袋までとある。
能登の海塩を期待する面々を思うと、最低でも10袋は欲しいところだが、店員は愛想なく、在庫がない一袋までと繰り返す。
舌打ちしながらもう一軒訪ねてみたが、ここでは一世帯一袋とさらに強気。まるで戦時中の配給を思わせる態度で腹立たしい。テレビの人気恐るべし。

道下村から人が消えた


限界集落を代表する我が道下村から更に人が消えた。8年前の能登半島地震で痛めつけられた村人も、すでに都会へ出ていた人たちも、過疎化の進む村にもう一度家を建て直すケースは稀である。倒壊した家は撤去され跡地は寒々とした更地になり、廃屋と化したまま手つかずの家も少なくない。黒々と瓦屋根が連なる奥能登特有の景観は消えてしまった。
門前町の人口は、昭和60年12,000人だったが、今年の5月時点では6,200人と30年間で半減した。村にただ一軒あった小さなスーパーも商売にならないと、一里離れた門前町の中心に引き上げた。高齢のお婆ちゃんたちは、買い物難民を余儀なくされている。能登から都会に出た人たちも、今では60歳、70歳の高齢世代に突入しており、かつて正月やお盆になると路上に溢れた横浜ナンバーや所沢ナンバーの車も最近めっきり減ったそうだ。
耕作地は荒れ果て、伐採されない山の木々は異様な姿を呈している。人間が1,000年かけて作り上げた村や町が大自然に還りつつある。もはや人口減少、少子高齢化社会の動きを誰も止められない。その典型を我が故郷、道下村に見る。

消えた北陸本線を三セクでたどる
北陸本線

今年3月、長野新幹線は北陸新幹線と名を変え、長野-金沢間に新幹線が走り始めた。その経済効果と金沢の街の賑わいは予想以上のようで誠に目出度いが、一方静かになるまで金沢へは行かないと決めた人も多い。来年の北海道新幹線開業で俄か人種がそちらに移動することを期待している人たちである。

さて鉄道はこうなった。
JRは新幹線に客を誘導するため、当然のように「北陸本線」を廃止した。しかし新潟、富山、石川3県を横断する北陸本線沿線住民の足を無くすわけにはいかない。JRのローカル線としてそのまま残すというテもあったろうが、JRと三県は従来の北陸本線を各県ごとにぶった切り、それぞれに第三セクターを設立した。
昨日まで一本の北陸本線だったものが3月14日からは、各県の県境までを第三セクター各社が運行する形になった。
独自の新造車両を開発した会社、JRから譲渡された車両の塗装色だけを変えた会社、内装を大幅に変えた会社とさまざまである。
発足後半年、日本海側の沿線人口は減ることがあっても増えることは無さそうである。鉄道会社として今すぐ黒字化を目指すことより、住民の利便性を確保し続けることが使命である。いずれ新駅設置とか、列車本数の増加などの要求が出てこようが、新会社はこれに応えうるか。経営合理化を理由に廃線の道を選んだ三セクも多い。そうならないことを祈る。

さて、「北朝霞→金沢」をJR各線と第三セクター各社を乗り継ぐことに要した時間は11時間、乗った列車は13本であった。

北朝霞―武蔵浦和 JR武蔵野線
武蔵浦和―大宮  JR埼京線
大宮―高崎    JR高崎線
高崎―横川    JR信越線
横川―軽井沢   JRバス
軽井沢―篠ノ井   しなの鉄道 しなの鉄道線
篠ノ井―長野   JR信越線
長野―妙高高原   しなの鉄道 北しなの線
妙高高原―直江津 えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン
直江津―市振    えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン
市振―倶利伽羅   あいの風とやま鉄道
倶利伽羅―金沢   IRいしかわ鉄道

・異色は直江津→泊のデイーゼル運転。電化区間に新造の気動車を投入している。乗務員は明確に答えなかったが、単行折り返し運転にはD車の運転コストの方が低いようだ。
・各社のテリトリ―は県境であるが、まさか河の中やトンネルの中では運転を引き継げない。そこで折り返し設備のある少し大きめの駅まで通しで走る。乗り継ぎ駅では旧来の長いホームの後部と前部を使って、別の会社の列車に乗り移る。
列車は担当区間を猛烈なスピードで走る。まるで次々とタスキを渡す駅伝走者のような感じである。

この日同好の鉄ちゃんには遭遇しなかった。この行程は彼らにもあまり魅力のあるものではなさそうである。  (2015.11.7)

観劇二作

映画なら玄人はだしを自負しているが芝居についてはまったくの素人。語るべきことがなかったが、ここにきて若手演劇人の二作品を観る機会に恵まれた。いずれも社会性に富み現代日本が抱える深刻な問題を告発する骨太な物語である。


そぞろの民 トラッシュマスターズ 中津留章仁作・演出 下北沢駅前劇場
安保関連法案が強行採決されたテレビ中継を見た直後、老人施設を抜けだしていたある平和学者が自宅で自殺した。
動機の究明と死に追いやった責任をめぐる三人の息子の争いは政治やジャーナリズムの問題、都会人の偽善性をあぶりだす。
そして老いがもたらす孤独と疎外感、老人の子供たちへの痛切な思いが次第に明らかにされる。歴史や政治を語るセリフはやや生硬で聞き飽きたフレーズも多いが、超高齢化社会が直面する家族問題、老人問題が容赦なく突き付けられて観客は身じろぎできない。
1973年生まれの中津留章仁は大震災発生後わずかひと月で『黄色い叫び』という原発を告発する青春群像劇を発表して観る者を驚かせた。この将来を嘱望される若手演出家は今回も100席とはいえ平日の小劇場を重たいテーマで満席にした。


地を渡る舟「1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち」てがみ座 長田育恵脚本・扇田拓也演出 東京芸術劇場シアターイースト
旅する巨人、民俗学者宮本常一と渋沢栄一の孫でパトロンの渋沢敬三の物語である。アチック・ミューゼアム(Attic Museum)とは渋沢邸の物置部屋の屋根裏に作った民俗学研究所のことで、動植物の標本や化石に溢れ、学問の支援者としての渋沢敬三のもう一つの顔を印すものである。
脚本の長田、演出の扇田、ともに1970年代後半の生まれの若手、彼らは言う。「震災直後、たとえ一瞬でも日本人の一人一人がこの国の未来を考えようとした。あれから三年、私たちはいま“新しい戦前”を生きている。常一が記録し続けた日本を私たちは確かに手渡されたはずなのに、いつしかそれを壊し葬ろうとしている。」止め処なく右傾化する日本…。若い演劇人の危機感に触れた。                    (2015.11.1)

正しい日本語を考える ー電車か列車か気動車かー

“そろそろ電車が来る時間だ”、“あの電車はかっこいい”…、テレビの旅番組などではお馴染の台詞である。
しかし「電車」じゃないのに、「電車」と呼ぶ神経には苛立つ。
こいつら馬鹿じゃないか!なんにも分かつちゃねいなと軽蔑しているが、天下の朝日にもそんな間違いが散見される。

鬼怒川の氾濫でひと月不通になっていた関東鉄道常総線が運行を再開したという10月10日の記事がある。それによると、写真下のキャプションには「決壊現場に近い南石下駅に一か月ぶりに電車が到着した」とあり、記事は「水海道駅で電車を待っていた高校一年生は…」とご丁寧にも間違いを繰り返している。
列車

鉄道を知る者は関東鉄道が首都近郊では珍しい全線非電化の気動車の走る路線であることを知っているし、鉄道ファンならずとも沿線住民は電車でないことは百も承知である。関東鉄道が設備投資をけちって気動車を走らせているのではない。茨城県石岡市に気象庁地磁気観測所があって、直流電流を流すと地磁気観測に影響を与える可能性があるため、半径30~40㎞以内では直流電化を採用できないのである。だから常磐線や水戸線、つくばエクスプレスもこの付近は交流電化になっている。関東鉄道も1980年代には急増する通勤需要に対処するため、電化を検討したが、前述の理由と複数の変電所建設に多額の投資が必要のため電化を断念している。

いっけん電車のように見える外観をしていても、架線は無いしパンタグラフもない。不勉強な若い記者連中に「電車」と書くのは間違いだと指摘しても、それなら何と書けばいいのかと質問されるに決まっている。現に朝日の紙面係りに電話で指摘したところ、「知りませんでした。それなら何と書くべきでしょうか」と案の定返答された。言うまでもなく「電車」とは電気を動力源として走行する鉄道車両のことであり、「気動車」とは主としてデイーゼルエンジンを動力源とした鉄道車両のことである。だから正確には「一か月ぶりに気動車が到着した」、「水海道駅で気動車を待っていた高校一年生は…」となるのだが、我々の日常感覚からは、正しいのだがどうもしっくりこない。
列車

さてどうするか。「列車」はどうだろうか。「列車」とは鉄道線路の上を列をなして走るから、こう称するのだが、一両編成であっても「単行列車」と呼ぶ慣わしになっている。ならば「一か月ぶりに列車が到着した」、「水海道駅で列車を待っていた高校一年生は…」となり、だいぶ日常感覚に近いものになる。
列車

テレビタレントにも“そろそろ列車が来る頃だ“あの列車はかっこいい”と言うように指導しようではないか。大きな間違いとは言わないが、上から下まで、聞き苦しい日本語の使い方が多すぎる。
この際、アドレナリンが出る、鳥肌が立つ、凄い絶景とか軽々しく叫ぶ風潮を止めさせようではないか。語彙の不足も際立つが、アドレナリンが出まくったり、鳥肌が年中立ちっぱなしだったり、日本全国が絶景だらけなどでは無いはずだ。日本語を正確に大事に使おう。(20015.10.15)

一億総活躍とはなにか

安倍政権の発する曖昧な言葉、インチキな言葉に国民は慣れっこになり反論する気概も失われつつある。
「積極的平和主義」の時もそうだったが、今度の「一億総活躍社会」にも上から目線の薄気味悪さと胡散臭さ、何とも言えない違和感で落ち着かない気分を抱く。
一億と聞いて我々世代が思い出すのは、終戦直後の一億総懺悔、1970年代の一億総中流、評論家大宅壮一は一億総白痴化という流行語を生み出しもした。
しかし怖いのは戦争標語。一億火の玉、一億玉砕、一億一心銃とる心、一億抜刀米英打倒なんてのもある。当時の日本の人口は7,000万人くらいだから、植民地にした台湾や朝鮮の人々も加えて、そんな掛け声をかけた。
いくら右寄り政権とはいえ、まさか戦争を始めるとは思わないが、汚染水が相次いで漏れている福島第一原を“完全にアンダーコントロールしている”と強弁する傲慢な体質の政権なのだから、ゆめゆめ監視を怠ってはならない。

いま我が国は政治家の劣化が激しく、国の10年先、20年先を考えるどころか、自分の次の選挙でいかに生き残るかで精いっぱいの浮草稼業のような人間ばかりである。
それをいいことにマスコミまで抑え込んだ安倍政権は曖昧な言葉とインチキな言葉を乱発する。身内からも何をする閣僚なのか分からないという声も上がった一億大臣は、どうやら首相の掲げる新三本の矢、つまり強い経済、子育て支援、安心に繋がる社会保障、それらを実現するための政策を纏めるらしい。
旧三本の矢の成果も分からないままに、合計六本の矢が放たれる。どこか空虚。非正規雇用の若者が続出し、六人に一人の子が貧困レベルで暮らしている、こんな社会にしておいて一方では屋上屋を重ねる省庁設置と会議の乱立、どこか狂っている。人文系を軽視して、モノを考える国民を減らそうとする安倍政権、まさに一億総白痴化政策の現代版に他ならない。(2015.10.17)

ポレポレ東中野とドキュメンタリー映画

JR東中野駅前に客席102のミニシアターがある。ポレポレ東中野というこの小さな映画館の自慢のひとつは客席一席あたりのスクリーン面積が日本一であることだ。
このポレポレという奇妙な言葉はスワヒリ語で、ゆっくりゆっくりという意味だそうで、時間に追われて生きている現代人に、もっとゆっくり楽しくやろうよという館主のメッセージでもあるようだ。
しかしながらこの劇場で上映される作品にはゆっくりとリラックスして楽しめる性質のものは少なく、多くは新人作家による問題提起型のドキュメンタリーである。
だから鑑賞する気分は、真紅の椅子に深々と腰を下ろしてゆったりとはならず、1カット、1シーンも疎かにすることなく画面に正対して深く考えるということになる。

天皇と軍隊
天皇と軍隊 Le Japon lEmpereur et lArmee
2009仏 渡辺謙一
6年前に制作されたフランス映画で安保法制の議論が活発になった8月に公開された。しかしこの時は連日、小森陽一氏、小熊英二氏、高橋哲哉氏、樋口陽一氏らのトークイベント付きだったため、入場券が取れなかった。そんな騒ぎが一段落した10月8日、かつて半藤一利の『昭和史』を読み合った仲間と見る。それにしても何故フランス映画なのか。
渡辺謙一監督のプロフィルによると、岩波映画入社20年後、パリに移住しフランスや欧州向けTVドキュメンタリーを数多く制作しているらしい。その人が制作協力にTBSを得て欧州から日本を見る視点で描いた。
1947年12月7日、天皇は広島に巡行し原爆ドームと2万人の市民の前に立ち、手を振りヒョイヒョイと帽子を掲げる。広場を埋め尽くす群衆からはやがて万歳の声が上がる。イギリス王立戦争博物館から入手したという映像に強い衝撃を受ける。
生き残った広島市民は原爆投下を肯定したのだろうか。戦争を終わらせるためには仕方のないことだったとして。
昭和天皇の戦争観がナマの音声で伝えられる。崩御前の記者会見、原爆投下の是否を問われて天皇は答える。「戦争というものは…、それも仕方のないことです」。
天皇制、戦争責任、軍部、憲法、靖国、東京裁判、慰安婦、自衛隊、日米安保…、日本の戦後史で議論され続ける問題に驚くべき豊富なアーカイブ映像とジョン・ダワー氏、ベアテ・シロタ・ゴードン氏らのインタビューを交え、将に息もつかせぬテンポで戦後70年、日本の辿った歴史が突きつけられる。これは万人必見のドキュメンタリーである。
9年前、昭和天皇を主人公にした純然たる劇場映画『太陽』が公開された。イッセー尾形が天皇に扮したロシア映画の傑作であった。この時も思ったが、こういう野心的なものを作れない日本の映画界は実に情けない。


戦場ぬ止み 2015日本 三上智恵
「いくさばぬとうどうみ」と読む。米軍普天間飛行場の辺野古への移設に抵抗する人たちを描く。反対派の船を阻止するための海上保安庁の船と海上で軽口を交わす様子や、地元の容認派とされる人たちの複雑な様子も描かれる。
我々はこんなに激しい抗議活動がいまも続いていることを知らない。そしてこれでも変えられないことに無力感を覚える。我々は沖縄の人々と連帯しないでいいのか。

波伝谷に生きる人びと
波伝谷に生きる人びと 2014日本 我妻和樹
三陸の志津川湾沿いに波伝谷という80戸余りの小さな漁村があった。人びとは牡蠣や海鞘、ワカメなどの養殖と丘陵地での農業を営んでいた。大震災の三年前、この村にキャメラを持った若者がやってきた。
2011・3・11は、この東北の寒村の日常と祭りを収めた映画のまさに試写会の日であった。

ここまでがポレポレ東中野での三作品、以下を新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、えびすガーデンシネマで見る

一献の系譜
一献の系譜 2015日本 石井かほり
北陸新幹線の開業とともにテレビドラマにも旅番組にもやたら能登が目立つ。奥能登を故郷にするものにはご同慶の至りだが、早くブームが去って落ち着いた能登に戻って欲しい気もする。
まさかそれにあやかった分けでもあるまいが、本作は能登半島出身の杜氏たちを追った酒造りのドキュメンタリー。ただし過酷な労働、辛く厳しい現場という割にはあまり辛くも厳しくもない通り一遍の画面ばかりで、杜氏の仕事が伝わらない。
これならいっそ杜氏を置かずにデータ管理で銘酒造りを成功させた山口の「獺祭」に対抗して、杜氏こそ日本酒造りのいのち!ともっと杜氏を泥臭く描けばよかった。残念ながら製作意図不明の駄作と言わざるを得ない。

シャーリー&ヒンダ
シャーリー&ヒンダ Two Raging Grannies
2013 ノルウエー デンマーク ホバルト・ブストネス
シアトル在住の92歳と86歳の老女二人が「経済成長って永遠に続くの?」という素朴な疑問をひっさげて、ワシントンの大学教授やウオール街の経済アナリストに会いに行く。行く先々で迷惑がられるのだが、これぞ怪作。マイケル・ムーアの突撃スタイルに似て痛快。

ロバート・アルトマン
ロバート・アルトマン Altman 
2014 カナダ ロン・マン
“ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男”の惹句に釣られたが然程のことは無い。アルトマン映画は『ナッシュビル』も『ロング・グッドバイ』も見ているが、断然『今宵、フィッツジェラルド劇場で』が面白い。もう一度劇場で見たい筆頭である。
(2015.10.11)

川崎工場夜景探検クルーズ

日本三景
松島天橋立宮島
日本三名園
兼六園後楽園偕楽園
日本三大夜景…、
函館神戸長崎
国内の名所旧跡をあらかた廻り尽くした元気な中高年は、旅行会社の主催する定番のツアーには飽き足らなくなってきた。
我々の仲間も、旅行で北海道に行くなどとは言わない。“道東へ行く”“道北へ行ってくる”と目的地は細分化され、そこで見聞するものもかなりマニアックなものになりつつある。
廃線になって久しい鉄道線路跡を辿るとか、操業を停止して何年も経ち赤錆の浮く工場群や、かつて栄華を極めた炭鉱や鉱山跡に入り込もうとする類である。
仲間と言わず自分自身も先ごろ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の長崎の軍艦島や釜石の橋野鉄鉱山を登録以前に見ているし、韮山の反射炉や富岡製糸場などは無論である。

9月23日、変わらぬ知的好奇心を抱く仲間6人が「川崎工場夜景探検クルーズ」というミニツアーに参加した。集合場所の天王洲桟橋に係留された屋根の無い小型の船は、運河の清掃用?と錯覚するみすぼらしいもので、“えっ!これが船?”と思わず叫びそうになる(事実叫んだ)。
夜景を見るのが目的だから暗くなってから出発する。定刻17時30分、運河船は京浜運河を下り、東京モノレールに並走し、眩い羽田空港を眺めながら、川崎の工場地帯に接近する。暗い運河にガイドの声が反響する。乗客は押し黙ったように、白色やオレンジ色のライトが輝き、煙突から白煙の上がる24時間態勢で操業する工場群の色、音、臭いを真剣に感じ取っている。暗い運河を進む運河船には興味津々の中高年がぎっしり。なにか上陸地点を探す中東の難民船のようでもあり苦笑いする。ここ川崎と北九州、室蘭、四日市は「日本四大工場夜景」として人気があるという。
川崎北九州室蘭四日市
11月には「ANAエンジン整備工場見学」を「頼れる大人の会」の秋の社会科見学に設定している。これからも会員諸侯の豊富な人脈と知恵を生かして、未だ見ぬものに触れてゆきたい。(2015.9.30)

『天災から日本史を読みなおす』磯田道史著


磯田道史

12年前、『武士の家計簿』~加賀藩御算用者の幕末維新~を著した歴史学者の最新著作である。発表当時は少壮の と称された同氏も今ではすっかり落ち着きはらった中年の顔になり、NHK/BS「英雄たちの選択」などを仕切っている。
独特の甲高い声は時として聞き苦しいが、名立たる論客たちの容易にまとまりそうにない議論を手際よく捌くウデは鮮やかで、精通する史実の幅と深さと併せいつも感心して見ている。
かつてファンであった学者、作家、役者などが次々と他界する中で、久しぶりに芽生えたファン意識である。
その彼が天災を勘定に入れて日本史を読みなおす必要があるとして、―先人に学ぶ防災―のサブタイトルのもとに本書を著した。

内容を詳述するには紙幅が足りないが、理系の研究者によって書かれた地震や津波ものでないところに値打ちがある。
「家康は天正地震に助けられ豊臣政権下でナンバー2の座を確保した。大規模な地震災害は誰がどんな国家を作るか、大きな歴史の流れにまで影響することがある。」天災という視点から数々の史料、古文書にあたった労作である。

巻末にこれから備えるべき自然の危機が三つ挙げられている。
第一:地震津波など地学的危機
第二:地球温暖化に伴って台風や集中豪雨が激化することによる風水害、高潮、土砂崩れなどの気象学的危機
第三:世界の人的交流の進展やテロの可能性が高まり、抗生物質耐性菌、インフルエンザ、出血熱などの感染症学的危機
そして9月10日、不幸にしてこの第二の危機が起こってしまった。この日、記録的な豪雨に見舞われた茨城、栃木、宮城の3県では19河川の堤防が決壊し、中でも鬼怒川が氾濫した常総市では東西4㎞、南北18㎞に及ぶ40平方㎞が浸水、住宅、店舗など2万棟が水に浸かった。いまでも避難所生活を余儀なくされている住民は気の毒にも1,000人を超えるという。

ここでまたしても腹立たしいことが起きた。それは「常総」という地名を聞いただけでは、そこが何処なのかを正確に判断できなかったことである。仮にそこが何処かを特定できたとしても、直ちにボランテイアに駆けつけるというわけではないが、この大災害の発生した街がどこら辺に位置するのかを正確に知りえないのは聊か恥ずかしい。野球好きなら甲子園の常連校「常総学院」を思い出すだろうが、それとて東関東、茨城県あたりという以外には絞り込めまい。
我々の古い常識からすれば、「常総」とは常陸の国と下総の国のことで、今では茨城県と千葉県の一部を指すと理解している。だからそこが「水海道市」と「石下村」を合併した地名と分かって驚いた。直ちに隣の下妻市に住む友人に安否確認の電話を入れた。

広域の地域名を市に被せた平成の大合併はこちらを混乱させる。
2008年の岩手・宮城内陸地震の際の「奥州市」。この市が東北の何処にあるのか、地図上に正確に示せる人は今でも多くはあるまい。
2011・3・11の「南三陸町」。これも何処にできた町なのか、分かるまでには時間を要した。
そして極め付けは2007年の能登半島地震。震源が「輪島市」と聞いて一瞬安堵したが、実は合併したばかりの我が故郷、門前町、それも道下村と分かった時は大いに慌てた。事程左様に市町村合併による安易な地名変更の罪は重い。(2015.9.26)

東京ステーションギャラリーと「九谷焼の系譜」

石川県人を名乗るからには県の伝統工芸「九谷焼」についても薀蓄のあるところを披露したいのだが、残念ながらその方面の知識はまったく無い。いまだに陶器と磁器の区別もつかない。
だが九谷焼360年の歴史を東京駅構内の美術館で知ることができるという惹句には抗し難く、漸く秋めいた一日、のこのこ出掛ける。会場が上野や六本木の美術館だったら多分行かなかったろう、鉄道と名がつくと心が動く。
東京ステーションギャラリー
まず焼き物よりステーションギャラリー。実はここは初めて。東京駅の復原工事で休館していたが、6年ぶりに2012年に再開館したのだという。丸の内北口に位置するギャラリーは創建当時の赤レンガ壁が露出した重厚な空間である。辰野金吾設計になる1914年の東京駅開業当時の日本煉瓦製造製の構造用レンガがあらわになっている。レンガ壁のところどころ黒いのは木製レンガが1945年の空襲による火災で炭化したものだという。

ギャラリー内の休憩室では剥き出しになった鉄骨に FRODINGHAM IRON & STEEL Co. LTD ENGLAND という刻印が認められる。これだけでも充分来た甲斐がある。東京駅100年の歴史の重みを再認識する。

さて九谷焼、石川県内の主だった美術館からあらかた取り寄せたのではないかと訝るほど、多くの作品が展示されている。
ここで見る大輪の牡丹と蝶も鮮やかな色絵大皿、グラデーションが幻想的な彩釉磁器を見ていると、素人目にもTVの人気番組「何でも鑑定団」に出てくる皿との違いは明らかである。

折角来たのだから、少しは学ばねば。
1 九谷焼は1655年ころ加賀の九谷村で藩窯として誕生したが50年後に閉窯した。これを<古九谷>と呼ぶ。
2 1800年以降、九谷焼の復活を目指す開窯が続き、この時期のものを再興九谷と呼ぶ。
3 古九谷の窯業技術は肥前有田に学んだとされ、佐賀の有田か、石川の九谷かと産地をめぐる論争の答えは現在も出ていない。
(2015.9.8)

「いま」を考えさせる洋画二作品

高齢社会の到来と認知症の恐怖、刺激的な映像を求める視聴者と視聴率争いに明け暮れるテレビ局、「いま」を考えさせられる対照的なアメリカ映画二作品を見る。

アリスのままで


アリスのままで Still ALICE
2014 米 監督リチャード・グラツァー、ウオッシュ・ウエストモアランド
ニューヨークのコロンビア大学で教壇に立つ50歳の言語学者アリス、家族に恵まれ学生たちからも慕われてまさに円熟期。
ところが講義中に言葉が思い出せなくなったり、ジョギング中に自宅までの道が分からなくなるという事態が起き始めた。
やがて若年性アルツハイマー症と診断され、アリスの記憶や知識は日々に薄れてゆく。
夫婦ともに大学教授、二人の娘も真っ当な生き方をしている恵まれた家庭環境という設定で、これによる家庭崩壊の悲劇は予感できない。
ただしこれは他人事ではない。いつ自分に起こっても不思議ではない。われわれの周囲は予備軍だらけである。
先年のフランス映画『愛、アムール』のような深刻さはないが、楽しく見られる映画ではない。しかし非常によくできた作品で高く評価したい。
アリス役のジュリアン・ムーアは大仰に演じることなく今年のアカデミー賞の主演女優賞を受賞した。気の毒なのは共同監督のリチャード・グラツアー、製作当時すでに筋委縮性側索硬化症という難病を患っていたそうだが、病床でアカデミー賞の授賞式を見届けた2時間後に63歳で旅だったという。

ナイトクローサー


ナイトクローラー Nightcrawler
2014 米 監督ダン・ギルロイ
ナイトクローラー、語感からも怪しげな雰囲気が漂う。英和辞典を引くと「夜間に這い回る大ミミズ」とあり薄気味悪い。
主人公ルイスは窃盗を重ねるチンピラだったが、たまたまテレビ局に扇情的な映像を売りつけるパパラッチという仕事があるのを知った。盗んだ自転車を金に替えた彼はカメラ機材を買い込んで、夜のロサンゼルスの街に事件を求めて徘徊し始める。
同業者との先陣争いに勝った彼は映像をテレビ局に言い値で売りつける。局側も視聴率競争に勝つためには次々と刺激的な映像を彼らに求める。
そして遂には同業者の車を細工して事故を起こさせ、その凄惨な状況をスクープするまでにエスカレートする。
ルイスにもテレビ局にももはやモラルは無い。
普通ここまでやると主役は事故死するか、社会的制裁を受けて、挫折し破滅するのだが、この映画の主人公はちがう。そんな柔ではない。それまでの個人営業を止めて、社員を雇いプロダクションを立ち上げる。狂ったアメリカの一面。
彼らは今夜も事件、事故を求めてロスの高速道、市街地を猛スピードで走りまわっている。         (2015.9.1)

宮脇俊三の世界

繰り返し読む本を3冊挙げる。

内田百閒阿房列車』(1952)、

川本三郎日本映画を歩く』(1998)、

宮脇俊三時刻表2万キロ』(1978)である。
なかでも『時刻表2万キロ』を何十遍開いただろうか。眼が冴えてなかなか寝付けないとき、夜中フト眼が覚めたとき、いつもこの本を開く。宮脇俊三が中央公論編集長を辞めて、鉄道紀行作家としてデビューした処女作である。
宮脇は国鉄全線20,000キロの完乗を果たすため、乗り残している僅か数キロの、それも日中一、二本しか走らないローカル線の未乗区間に挑戦する。その延長距離2,700キロ、74路線。
西寒川線、上砂川線、東羽衣線、登川線…フツーの人はその存在すら知らないだろう。現在ではレールはおろか線路跡も姿を消している路線ばかりだが、本書が執筆された当時は、赤字だ、いずれ廃線だと言われながらも、国鉄の地方ローカル線は地域の足として機能していた。

宮脇が並みのレールウェイライターなどでなかったのは、父親は代議士、自身も東大西洋史学科卒という超インテリの上に、中央公論編集長時代に多くの作家や評論家と仕事をしてきたことにある。
阿川弘之に『南蛮阿房列車』を書かせ、隣人の北杜夫を世に送り出した名編集長のウデにもまして、鉄道に関する並外れた知識と地理、歴史に精通した驚くべき博識、妙にマニアっぽくない自然な文体…、次第に宮脇に羨望と憧れを抱くようになった。

この本が明らかにその後の自分の転換点になった。もともと鉄道好き、可能かどうかは別にして、これを機に国鉄全線の完乗を今後の目標の一つにした。この時40歳。自室に国鉄全線(当時249路線、22,000キロ)を書きこんだ大きな白地図を貼りだし、まずは記憶を手繰りながら既に乗っている区間を赤線で塗りつぶす。
1981年4月の時点で、乗車キロ数は約14,000キロ、63.1%。翌年の11月、70.55%。次の年の8月、72.76%。着実に「赤線」が伸び、未乗区間が減ってゆく。
旅から帰り白地図に「赤」を入れ、乗りつぶした区間のキロ数を分子に加え分母で割る作業が無上の楽しみになってきた。
しかし未乗区間の「黒線」は盲腸のようにまだ全国に散らばる。これを何とかしなければならない…。

飛んで1990年11月、ついに乗車キロは97.86%に到達した。この頃になると、国鉄分割民営化(1987年)による赤字路線の廃止が進んで分母が減ったこと、こちらにも若干の余裕ができ、“北海道未乗7線乗りつぶし銀婚旅行”などの実行で塗りつぶしが一気に進んだ。
そして1991年5月3日、函館本線砂川-上砂川間7.3キロを消化して、ついに国鉄全線の乗車を達成した。この段階での国鉄全線は19,984キロであった。

『時刻表2万キロ』に啓発されて以来10年、未乗区間であった6,000キロを乗りつぶした。快挙とみるか、バカバカしいとみるかは別として、サラリーマン生活の最も充実していた時期、全国を廻りながら、酒を呑み、温泉に浸かり、暇さえあれば夜行列車を乗り継いで北は稚内に向かい、南では枕崎の駅名看板を撮った。

宮脇が趣味の世界に「鉄道に乗る」という新分野を確立してくれたおかげで、“いつまでもいいトシをしてみっともない”と日陰者扱いされていた世の鉄道ファンも表に立てるようになった。ただし昨今の、運転を終わる寝台列車に向かって、“お疲れさま、有難う”などと叫ぶエセ俄か鉄道ファンの群れを見たらどう思うだろうか。
宮脇にまつわる記述を読んでいると、ああやっぱりと肯く箇所が多い。彼のお気に入りの路線は宗谷本線、根室本線、山陰本線。車窓のベストは利尻富士が見える宗谷本線の抜海駅付近。旅情を感じる駅名は音威子府、信濃追分。駅弁は小淵沢の「元気甲斐」。
元気甲斐
これに天北線の何もない北海道の光景と迷路のような筑豊のローカル線網を加えると我が鉄道好き人生が完結する。(2015.8.25)

積極的平和主義と戦後70年談話

「積極的平和主義」という用語に、それが積極的に使われだされた頃から、妙な胡散臭さと落ち着かない気分を抱いてきた。
安倍首相は積極的平和主義の実現のためには、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が必要だと認識している。だから「積極的平和主義」は平和を名乗りながらも憲法の平和主義に反するという意見が当然ある。我々は安易に「平和」と言う言葉に騙されてはならない。
今更とは思うが、広辞苑で「平和主義」をひく
1 平和を理想として一切を律する思想上、行動上の立場。
2 一切の戦争を悪として否定する立場。
とある。これに「積極的」をかぶせるとどうなるのか。
英訳ではProactive Contribution to Peaceと言うらしい。平和への積極的な貢献とでも言うのか。

折も折、この言葉を提唱したノルウエーの学者が来日した。この人は戦争の無い状態を「消極的平和」と言い、貧困や差別といった構造的暴力のない状態を「積極的平和主義」と定義する。
日本の平和のために、世界に出て行って戦うというような安倍首相の「積極的平和主義」とはどうやら異なるようだ。日本が集団的自衛権を行使するようになれば、中国はさらに軍備を拡張するだろう。結果、報復を招き日本の安全は高まるどころか脅かされるようになる。枝葉末節な議論に終始する国会の論戦に呆れる。

戦後70年安倍談話に対する各紙の論調は当然のごとく割れた。肯定派の読売、産経、日経。否定派の朝日、毎日、東京。各社とも自社寄りの評論家、識者を動員して論調を補強する。一国の首相談話がこれほど違った形で報道され、右と左の国民世論が形成されてゆく。怖いようにも思うが、これが民主主義なのだろう。

産経・桜井よし子氏 ジャーナリスト
「侵略」という言葉を使ったが、一人称ではなく歴代政権の姿勢として、国際社会の普遍的価値としての言及だったのは非常に良かったと思う。「日露戦争」は植民地支配のもとにあったアジア、アフリカの人々を勇気づけたとした。歴代首相でそういうことを述べた人がいたか。歴史の事実として、人類の歩みの中に日本もあったと確認したことは良かっただろう。

宮家邦彦氏 外交評論家
戦争に至る当時の国際環境や、日本がなぜ国策を誤ったかについて丁寧に説明している。「頭を垂れる」「痛惜」という自分自身の言葉を使っており、外交的にもバランスが取れている。

読売・細谷雄一氏 慶大教授
村山談話は首相と一部閣僚、少数の歴史家によって短期間で作成された文章で、国民のコンセンサスを作るという意味では失敗だった。今回の安倍談話は相当時間をかけて練り上げたという印象だ。可能な限り幅広く国民が受け入れられる文章を選んだ。結果として、かなりの程度、歴史認識をめぐる国民のコンセンサスになるのではないか。

高原明生氏 東大教授
素直に認めれば過去の談話の主なキーワードがすべて入り、何を反省しなければならないか、についてはこれまで以上に具体的に述べられており充実した内容になった。

朝日・三谷太一郎氏 東大名誉教授
日本の台湾や朝鮮に対する植民地支配への自己批判がない。責任も不明瞭だ。侵略の責任という問題意識もないことが非常に問題だ。過去に対して主体意識がないために、現在と未来に対する展望を自らの言葉で語れないのだろう。その結果、終始冗長で毒にも薬にもならない談話になった。

白井聡氏 京都精華大講師
作成過程でどんな文言を入れるのかが、これだけ注目されたことは、結局安倍首相が政治家として、いかに信用されていないか改めて露呈したと見るべきだ。

西崎文子氏 東大教授
平和国家としての歩みを強調しながら、それを担保してきた憲法に一言も触れていません。考えるべきは第一はアジアにおける日本の加害責任、第二は戦争被害、とりわけ原爆被害です。日本が加害責任を認めて謝罪したうえで、原爆投下の非を問えば核廃絶に向けての日本の主張は説得力をもったはずです。

8月28日、九条の会・さいたまの主催する青木理氏の「国家権力とメデイア ―ナチ化した安倍政権の暴走を許すな―」を聴く。
1 メデイアの役割を全く理解していない安倍反知性内閣
2 ジャーナリスト後藤健二氏死去にまつわる官邸の対応
3 メデイアの自己規制と萎縮の実態
4 体制迎合を恥じない大メデイア
5 祖父岸信介、父安倍晋太郎は政策や思想的に問題はあっても、相当に幅と深さを持った人物と理解している。晋三のような反知性主義、歴史修正主義者がどうして生まれたのかを解明中である。

最後に終戦を主導した鈴木貫太郎首相の孫、鈴木道子さん83歳「終戦から70年が経ち、平和の尊さがわからない人が増えているようです。祖父は息を引き取る前、“永遠の平和”と言い残しました。祖父らが身を捨てて取り組んだことで、終戦に導くことができました。若い人たちには本当に貴重な平和であるということを改めて心してもらいたい。
(2015.8.31)

前立腺癌(最終章)

前立腺癌を宣告されたのは2012年の10月。以後国立埼玉病院において、
1)「ヨウ素125シード線源永久挿入による密封小線源療法」という名の手術を行う(2013年8月6日~9日)。
2)放射線外部照射を連続25日間行う(2013年9月11日~10月18日)。
3)内分泌療法(ホルモン注射)を3か月ごとに2年間続ける(2013年10月~2015年5月)。

さて術後2年、めでたく無罪放免を期待したかったが、8月18日、主治医門間哲雄医師のお告げは、次は6か月後の来年2月に来院せよと言うもの。PSA 値は0.01以下と再発や転移を心配する必要は無さそうだが、もともと切らずに治す奇跡の治療を選択したわけではない。長い時間をかけてじっくり取り組む必要がありそうで、今後数年は経過観察に通うことになる。

もっともこの信頼できる大病院の診察カードを所持していることは、万一何かあったときに直ぐ役立つことは間違いなく、埼玉病院との付き合いは終生続くことになりそうである。

この間、副作用がまったく無かったわけではない。療法の説明書には早期副作用、晩期副作用が詳述されており、排尿、排便に関し異常を感じた事もあったが、すべて軽微なもので日常生活に影響を受けることは無かった。「前情連」の仲間とは定期的に情報交換を行っているが、みなさん経過は良好。ゴルフでも夜の会合でも、相変わらずの腕前とノドを披露している。(2015.8.23)

阿川弘之氏死去 -鉄道好き作家の系譜-

鉄道が登場する文学作品は数々あるが、「鉄道好き」の作家となると内田百閒(明治22年~昭和46年)と阿川弘之(大正9年~平成27年)に止めを刺す。後年現れた宮脇俊三(大正15年~平成15年)は大手出版社の編集者上がりである。

漱石門下の内田百閒は「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思ふ」の『阿房列車』で文学の世界に鉄道紀行というジャンルを確立した。

その後継者とも言うべき阿川弘之は志賀直哉系の文化勲章作家であるが、異常な乗り物好き、わけても鉄道大好き人間で、この道の先達内田百閒に対する敬意には並々ならぬものがある。
「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(『お早く御乗車ねがいます』昭和33年中央公論社刊)と密かな自信を示す。

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(『南蛮阿房列車』昭和52年新潮社刊)と使用許諾を得ないまま勝手に阿房列車を走らせはじめた。

こんな分けだから、我が貧弱な蔵書にも阿川弘之の著・訳・編になる鉄道ものが多数ある。

お早く御乗車ねがいます [昭和33年]
空旅・船旅・汽車の旅 [昭和35年]
ヨーロッパ特急  [昭和38年]
乗物万歳 [昭和52年]
南蛮阿房列車 [昭和52年]
南蛮阿房第2列車 [昭和56年]
鉄道大バザール  [昭和59年]
古きパタゴニアの急行列車  [昭和59年]
機関車・食堂車・寝台車  [昭和62年]

そして我が鉄道好き人生。
「乗り鉄」の極み阿川弘之をして、俺はもう止めたと言わしめた宮脇俊三のデビュー。その『時刻表2万キロ』(昭和53年)に衝撃を受け、触発され、以来今日まで営々と各地の鉄道を乗りに出かけている。JNR時代の全線に完乘したのは、もう昔のことだが、あいかわらず鉄道に乗って何処かへ行きたいと言う気持ちは変わらない。近年急増した俄か鉄道ファンは時として迷惑だが、こちらは年季の入った本格派。
北陸新幹線などには目もくれず、高崎線→信越線→JRバス→しなの鉄道→信越線→しなの鉄道→えちごトキめき鉄道→あいの風とやま鉄道→IRいしかわ鉄道を乗り継いで金沢まで行って来ようと思う。
百閒翁は大阪に用事はなかったが、こちらは能登で墓参がある。北陸新幹線なら2時間の行程を、新幹線の開業でバラバラにされたJR各線のドン行と新たに誕生した第三セクター6本を乗り継いで10時間かけて行く。これぞ「乗り鉄」の極み。どなたか同行しませんか。(2015.8.13)

碌山美術館と新宿中村屋

一見なんの共通項も無さそうな両者に深い繋がりを知るのだから読書は止められない。
新宿ベルエポック
『新宿ベル・エポック』(石川拓治著)で多くの知識を得る。
松本駅から大糸線で10駅先「穂高」の近くに、教会を思わせる小体な建物がある。
禄山美術館
それが碌山美術館、付近は安曇野のワサビ田が有名で、多くの観光客はそちらに向かい、この美術館はいつも比較的空いている。有形文化財に登録されている形のいい建物を写生する日曜画家の方が多いのではと思えるほどに美術館の外観は美しい。
白馬や上高地への行き帰りに何度か訪れているが、荻原碌山という彫刻家について、東洋のロダンと称されるという以外の知識は無かった。
荻原碌山(おぎわらろくざん)、本名は守衛(もりえ)で碌山は号である。この号の由来が面白い。夏目漱石の『二百十日』の登場人物、碌さんが大いに気にいっていた守衛は、やがて当時の仲間、高村光太郎や藤島武二らから「オイ碌さん」と呼ばれるようになり、その「オイ碌さん」が碌山になったのだと言う。

さて新宿中村屋、創業者は碌山と同郷信州安曇野の相馬愛蔵・黒光夫妻。創業者などと書くと、それなりの企業のように思えるだろうが、明治35年の開業当時は夫婦二人で始めた東京帝大前のパン屋にすぎない。
明治42(1909)年 新宿の支店を現在地に移し本店とする
それから100余年、昨年10月真新しい新宿中村屋ビルが完成した。その3階「中村屋サロン美術館」には碌山の代表作『女』をはじめ、日本の近代美術史に名を刻むいくつかの作品が展示されているという。相馬夫妻は今で言う芸術家のパトロンとして、明治、大正、昭和期の若い芸術家を育てた。名物「純印度式カリー」をいただきながら、芸術を鑑賞することにしよう。(2015.8.7)