松代大本営跡象山地下壕を覗く

北信濃に構えた友人の山荘を足場に北信の名所・旧跡を訪ね歩く。これもその一つ。「松代大本営跡の地下坑道。」
浅学菲才の身でいままでその存在を知らなかった。しかし半藤一利の『昭和史』にも、版を重ねている岩波新書の『昭和史』にも登場しないから、太平洋戦争の大混迷の中では、そうたいしたことではない事柄なのか、或いは闇に葬られた事実が姿を現したのか。
皮肉屋永井荷風の『断腸亭日乗』の昭和19年、20年をめくっても、彼独特の『人の噂によれば…、末路ますます憐れむべく笑うべし』などという記述にはお目にかかれない。知らなかったのか、禁句だったのか。

さて「松代」の地名で連想するのは、このことを知っている人を別にすれば、半世紀前に起きた松代地震であろうか。近くには葛飾北斎と栗で有名になった小布施がある人口20,000人強の長野県北の小さな町である。
そこに第二次世界大戦の末期、軍部は本土決戦最後の拠点として、国体維持を目的に極秘に、皇居、大本営、政府機関等を移転させる一大遷都計画を進め始めた。その中心地に松代が選ばれたのである。
選定の理由は、
1) 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場があること。
2) 固い岩盤で掘削に適し、10T爆弾にも耐えること。
3) 山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野があること。
4) 長野県は労働力が豊かであること。
5) 信州は神州に通じ品格もあること。
などであるとされたが、こんな大規模な計画が秘密にできるはずもなく、地元は無論、周辺地域でも、大本営と天皇陛下が東京から移ってくるという噂は広がっていたという。

工事開始は昭和19年11月11日、終戦の日までの9か月間に延べ60万人が動員され延長10㎞の大地下壕が完成した。が、目的を果たせぬまま今日に至っている。
いまこの内、象山地下壕といういわばトンネルが500mにわたって公開されている。それを見た。当時のままの状態という地下壕内部には、岩に突き刺さったままの削岩機やズリを運び出すトロッコの枕木跡などが生々しい。

これまで観光地になっている夕張や常磐炭鉱の坑道跡、足尾銅山、院内銀山、伊豆の土肥金山などの坑道にも入ったが、高さ3m、幅4mもある一般道路のような、こんな大規模な地下壕を見るのは初めて。
NHKも通信機関も皇族も政府機関も、そっくり移転させるという途方もない狂気の沙汰としか思えない計画が、防衛省・防衛研究所戦史研究センターに「松代倉庫新設工事設計図」として保存されているという。

いまからおよそ80年前、日本の軍部はこんなバカバカしい計画を本気で考えた。 戦争という狂気は人間の正常な判断力をここまで奪うのか。本土決戦、一億玉砕…、国民を戦禍から救うより天皇制維持のための国体護持を優先した残滓がここに残っていた。荷風流に言えば『政府の命脈長きに非ざるべし』となろう。

とても観光気分になれない中で、救いは大勢の中高生が見学に来ていること。観念的な戦争論より百聞は一見に如かず。彼らの健全な成長を期待する。(2020.11.17)

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