「北海道」の名付け親 松浦武四郎

三重県松阪市主催のセミナー(3月7日)に参加する。そこで「北海道」の名付け親が松浦武四郎(1818~1888年)で、今年は生誕200年。行政地名が北海道と制定されて150年であることを知る。
「松阪」と聞いて何を連想するだろうか。食通なら松阪牛、文系なら国学者本居宣長、映画好きなら小津安二郎か。
しかしちょっと待て!松浦武四郎を忘れるなというのが、このセミナーの目的である。浅学の身にはこの人を知る機会が今までなかったが、講師の話によれば幕末から明治維新にかけて、蝦夷、千島をくまなく調査した探検家であり、日本全土を実測して地図を作成した伊能忠敬(1745~1818年)、間宮海峡の間宮林蔵(1780~1849年)と並び称される偉大な探検家であった。
特に明治2年(1869年)、蝦夷地の呼称を北海道とする際はアイヌ語の「カイ」(この土地で生まれたもの)を用い、「北のアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めて「北加伊道」を提案し、現在の「北海道」の名が生まれたのだという。

当時の蝦夷地は松前藩の統治下、広く自由に行動することなど容易でなかった。しかし武四郎は江差や箱館(函館の旧名)の商人や、蝦夷地に関心を持つ水戸藩などの庇護を得て、内陸部から釧路、根室、知床、樺太、国後、択捉に至るすべての海岸線と石狩川、天塩川の流域調査を6回にわたり行い蝦夷通となった。
そして嘉永2年(1849年)に著した「蝦夷大概図」は、我が国最初の北海道地図として、翌年の「蝦夷日誌」は当時の北辺について書かれた重要な著作として位置付けられることになる。
かくして武四郎は1868年、明治新政府に「蝦夷開拓御用掛」として登用されることになるが、本来自由人である武四郎は「官に仕えるは誠に窮屈」として、一年後に辞職し、雅号「北海道人」そのままに全国の遍歴と執筆活動を71歳で没するまで続けたという。
司馬遼太郎は「街道をゆく―オホーツク街道」において、『雑木林を見ながら、松浦武四郎のことをおもった。その日記や紀行文のたぐいも持ってきた。武四郎が愛した山川草木の中で、その文章を読むと、自分がアイヌになって、武四郎と話しているような気になる。』と記す。
「武四郎の碑」は北海道のあちこちにあるらしい。枝幸、猿払、天塩…、残念ながらこれまでそれを見た事はない。
(2018.4.3)

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