小西昌博君

2月13日の夜、若い女性の声で電話があった。
「小西です。父が死にました。」 
一瞬何が起きたのか理解できなかった。
“エッ? お父さんが? どうして? いつ? 何があったの?”
電話の主はどうやら一緒に住む長女らしいと分かったのだが、うろたえて、聞きただすべきことが声にならない。

まさか、ありえない、そんな馬鹿な そういう気持ちが先走って事態が一向に信じられない。
“来月、神戸で会うことになっていたんだが”
「聞いていました。でも10日に亡くなりました…。」
しばし無言。
“で、事故? この前の電話の声は普通だったよ”
「一月末に肺炎で入院したんですが、容態が急変しました。間質性肺炎と診断されていました。」

信じるしかない。またしてもかけがえのない友人を失った。
小西とは60年に及ぶ付き合いだった。立教大学文学部史学科の同期生で、「史学研究会」のサークル仲間でもあった。
四国高松出身の彼の自由な下宿生活が羨ましく、後年窮屈な親元を離れ、一刻も早く地方の会社に就職したいと考える要因を作ったのは、紛れもなく小西の生活ぶりにあった。
春休みや夏の休みになると長期間帰省する彼を、東京駅へ見送ることも度々あったし、一緒に四国へ渡ったことも数えきれない。お蔭で、北海道は知らなくても四国は隅々まで知ることになった。

そして帰京の折、宇高連絡船の長い桟橋を全力で走って、夜行列車の席を確保したこともまだ昨日のことのように覚えている。
何度も彼の家を拠点に四国を旅した。室戸岬へも、足摺岬へも、初めて土讃線に乗ったのもその頃である。
ご両親には随分お世話になったし、可愛がってもらった。
東京で下宿生活をおくる息子をよろしくということであったのかもしれない。こんな関係だったから、新婚旅行の行き先を四国にした。まず彼のご両親に報告しようと思ったからでもあった。

その後も、生まれた子供三人が娘ということも、両親の年齢が全く同じであることなど、家庭環境が非常に似ていて話が通じやすく、何歳になっても仕事で四国へ出張する折は栗林公園に近い彼の家に寝泊まりしていた。

社会人として彼は教員の道を歩き、定年後は町の名士として地元の団体の役員を幾つか務めていた。
そんな彼と二年ぶりに神戸で会う約束をしたのが一月の中旬、そろそろ会うべき時間と場所を連絡しようかと思っていた矢先の悲報だった。
世間一般からすれば、トシに不足はないと言われるようになったものの、依然学生気分が抜けない間柄だった。
だからいなくなったという実感が湧かない。“おーい小西よ”“なんだよ田谷”と声が聞こえてきそうである。

友人が次々と去り、最近では年に数回、こんな気分を味合うようになってしまったが、今回は特別で本当にがっくり、力が抜けた。
残念ながら葬儀に駆けつけることはできなかった。
神戸で会う予定をした来月15日、お悔みに高松へ向かう 合掌
田谷英浩(2017.2.22)

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