半世紀前のフィリピン

この数日、新聞、テレビはフィリピン訪問の天皇慰霊の旅を大きく報じた。
そこで思い出すのは入社後初の海外出張がフィリピンだったことである。時は1968年(昭和43年)10月、終戦後23年、1弗360円の固定レート、羽田空港では大勢の見送り人が万歳を叫ぶ時代だった。
目的は会社の宣伝映画を作ること。“陸に海に空に活躍する神鋼電機”みたいなのを作って、企業イメージを高めようと考えた。コンセプトはGNPを世界2位に押し上げた日本産業のあらゆる分野で活躍する神鋼電機… それを構成する重要なファクターとして、「絵」になる海外シーンが欲しかった。
幸いそのころ、フィリピンでは続々と製糖工場が作られていて、我が社の自家発電設備が各地で稼働中であったり、建設中であったりした。
さらに調べてみると幾つかのセメント工場や銅山でも運転中の発電機がある。1961年の入社時、我が社の資本金は1億円であったが、7年後には増資を重ね60億円になっていた、そんな時代である。トップを説得して、映画の製作とフィリピン・ロケ20日間を納得させた。

ロケ先はBatangas製糖工場、Marinduque銅山、Luzonセメント工場、Negros島製糖工場と点景にジープニーの走りまわるマニラ市内の雑踏、名高いマニラ湾の夕日、マカテイ新市街など。
記憶に残るのは、対日感情が悪いとはあまり思わなかったが、治安に非常な不安を感じた事である。戦後まだ20余年、町には荒廃したスラムが連なり、貧しい住民が所在なげに群れをなす。何かあってもおかしくはなかった。

特に製糖工場などは、砂糖黍畑が延々と続く人里離れたところに建設されていて、何時強盗が出て来てもおかしくはない。
アテンドしてくれた商社はライフル銃を構えたガードマンを付けてくれたほどである。
でもカメラを構えただけで集まってくる人たちは人懐っこく、いわんや映画のロケ隊などは見た事もなかっただろう。好奇心溢れる表情の男女がワンサと押し寄せてくる。今にして思えば、その中に日本人憎しの感情を抱く人がいても決しておかしくはなかった。よく何事もなく帰国できたと、50年後のいま改めて思う。

映画は国内ロケを含め、4巻38分もので完成、その内8分をフィリピン・ロケで占めた。ウデのいい短編映画、記録映画のスタッフが集まってくれたお蔭で、その名もズバリ『神鋼電機』と名付けたこの企業PR 映画は、完成翌年の日本産業映画コンクールに入賞し、製作を決断したトップも胸をなでおろした。
そしてこの作品の成功が、のちの『振動の世界』、『水と農業』に繋がり、東京文映の名は一躍この世界に広がった。
ただし残念なことはこの16mmフィルムが、その後ビデオ化、DVD 化されることなく、現在見る機会がないことである。
田谷英浩(2016.1.31)

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