宮脇俊三の世界

繰り返し読む本を3冊挙げる。

内田百閒阿房列車』(1952)、

川本三郎日本映画を歩く』(1998)、

宮脇俊三時刻表2万キロ』(1978)である。
なかでも『時刻表2万キロ』を何十遍開いただろうか。眼が冴えてなかなか寝付けないとき、夜中フト眼が覚めたとき、いつもこの本を開く。宮脇俊三が中央公論編集長を辞めて、鉄道紀行作家としてデビューした処女作である。
宮脇は国鉄全線20,000キロの完乗を果たすため、乗り残している僅か数キロの、それも日中一、二本しか走らないローカル線の未乗区間に挑戦する。その延長距離2,700キロ、74路線。
西寒川線、上砂川線、東羽衣線、登川線…フツーの人はその存在すら知らないだろう。現在ではレールはおろか線路跡も姿を消している路線ばかりだが、本書が執筆された当時は、赤字だ、いずれ廃線だと言われながらも、国鉄の地方ローカル線は地域の足として機能していた。

宮脇が並みのレールウェイライターなどでなかったのは、父親は代議士、自身も東大西洋史学科卒という超インテリの上に、中央公論編集長時代に多くの作家や評論家と仕事をしてきたことにある。
阿川弘之に『南蛮阿房列車』を書かせ、隣人の北杜夫を世に送り出した名編集長のウデにもまして、鉄道に関する並外れた知識と地理、歴史に精通した驚くべき博識、妙にマニアっぽくない自然な文体…、次第に宮脇に羨望と憧れを抱くようになった。

この本が明らかにその後の自分の転換点になった。もともと鉄道好き、可能かどうかは別にして、これを機に国鉄全線の完乗を今後の目標の一つにした。この時40歳。自室に国鉄全線(当時249路線、22,000キロ)を書きこんだ大きな白地図を貼りだし、まずは記憶を手繰りながら既に乗っている区間を赤線で塗りつぶす。
1981年4月の時点で、乗車キロ数は約14,000キロ、63.1%。翌年の11月、70.55%。次の年の8月、72.76%。着実に「赤線」が伸び、未乗区間が減ってゆく。
旅から帰り白地図に「赤」を入れ、乗りつぶした区間のキロ数を分子に加え分母で割る作業が無上の楽しみになってきた。
しかし未乗区間の「黒線」は盲腸のようにまだ全国に散らばる。これを何とかしなければならない…。

飛んで1990年11月、ついに乗車キロは97.86%に到達した。この頃になると、国鉄分割民営化(1987年)による赤字路線の廃止が進んで分母が減ったこと、こちらにも若干の余裕ができ、“北海道未乗7線乗りつぶし銀婚旅行”などの実行で塗りつぶしが一気に進んだ。
そして1991年5月3日、函館本線砂川-上砂川間7.3キロを消化して、ついに国鉄全線の乗車を達成した。この段階での国鉄全線は19,984キロであった。

『時刻表2万キロ』に啓発されて以来10年、未乗区間であった6,000キロを乗りつぶした。快挙とみるか、バカバカしいとみるかは別として、サラリーマン生活の最も充実していた時期、全国を廻りながら、酒を呑み、温泉に浸かり、暇さえあれば夜行列車を乗り継いで北は稚内に向かい、南では枕崎の駅名看板を撮った。

宮脇が趣味の世界に「鉄道に乗る」という新分野を確立してくれたおかげで、“いつまでもいいトシをしてみっともない”と日陰者扱いされていた世の鉄道ファンも表に立てるようになった。ただし昨今の、運転を終わる寝台列車に向かって、“お疲れさま、有難う”などと叫ぶエセ俄か鉄道ファンの群れを見たらどう思うだろうか。
宮脇にまつわる記述を読んでいると、ああやっぱりと肯く箇所が多い。彼のお気に入りの路線は宗谷本線、根室本線、山陰本線。車窓のベストは利尻富士が見える宗谷本線の抜海駅付近。旅情を感じる駅名は音威子府、信濃追分。駅弁は小淵沢の「元気甲斐」。
元気甲斐
これに天北線の何もない北海道の光景と迷路のような筑豊のローカル線網を加えると我が鉄道好き人生が完結する。(2015.8.25)

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中