第10回平和のための戦争展

戦後70年、あらためて戦争を考える。被害者として、加害者として

開催日程 2015年8月21金~23日
開催時間 am9:30~pm18:00
最終日 pm17:00終了
場所 朝霞市立図書館 集会場・視聴覚室・和室
Asaka-tosyokan

講演
8月22日(土)pm13:30~朝霞在住者による戦争体験リレートーク

竹と紙で作った張りぼて飛行機
宮崎県の中学校では先生の指示で男子生徒は山から竹を切り出し、それで大きな籠を作りました。女生徒はそれに紙を張り付けました。
大きな竹の張りぼては何だか判らないが校庭に並べされました。あとで判ったことは米軍から日本の戦闘機に見えるように作ったことを。
宮戸・立山さん

私の戦争体験小学生で勤労奉仕
1929年生まれの86才ですが、宮城県松島の郊外に生まれました。
昭和13年ごろだったか海に近い田んぼに飛行場を作る事になりました。今の航空自衛隊松島基地ですが、私たちの小学校はすぐそばでした。その頃はもう大人がいないので男も女もなく小学生なのに飛行場作りを手伝わされました。
山から土砂を運び出して滑走路を作るのです。小さなトロッコに土砂を積み私たちが押して運びました。また「たがら」という背負子を夜に自宅で蔦で編み肩に掛かる部分だけ布で作りました。それを背中に背負い土砂を入れて貰い建設現場に着くと背中の「たがら」をヒョイと傾けて土砂を下しました。
もうその頃は日本軍には飛行機はすでになく、終戦が近づいた頃には大空襲を受け、ベニヤ板で出来た飛行機は木の葉で偽装していたが、米軍機からの爆弾が落ちるたびに飛び上がりベニヤ板の飛行機は穴だらけになっていた。(朝志ヶ丘・吉田)
朝志ヶ丘・佐藤さん

全てが燃え尽きた下町
私は小学校の3年生で自宅はお米屋さでした。8月13日でした、B29が来て焼夷弾を沢山落としてきました。墨田区の堤通りの自宅近くに防空壕がありました、畳3畳くらいの小さなもので、子供の私の頭がぶつからない程の深さでした。父母と私たち兄弟と近所の方と身を寄せ合って隠れていました。母は時々生活に必要な物を取りに自宅に戻りました。
焼夷弾は上からキラキラと光って落ちてきますが爆弾の様に大きな音はしません。落ちると周りの家が全て燃えました。私は怖くて怖くて外に出たのですが、見わたすかぎりの家が燃えつきていました。勿論自宅も焼けて亡くなり仕方なく遠くない所のお寺で野宿をしました、水も食べ物もありません、近所の方がおにぎりをくれたのですがそれが凄く美味しかったことを覚えています。通りには男も女も衣類が半分燃えたりすすけた格好で歩いている人が沢山いました。焼け出されたのですが何処に行くのでしょう
朝志ヶ丘・吉田さん

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中