宮城県沿岸部の復興を見る

東日本大震災で宮城県女川町は死者・行方不明者800人超という人口比最大の人的被害を出した。しかしその後の復興計画において、海に囲まれて生きてきた町民は防潮堤を作らないことを決めた。海が見えなくなることを選ばず、津波が来ても逃げられる、建物は失っても人命を失わない町を作ることにしたのだ。
平成の大合併でも独立の道を選んだ女川町は、「女川町復興まちづくりデザイン会議」を設け、60代は口を出さず、50代は口を出しても手は出さずをモットーに30代、40代が中心になって、津波で更地になった土地に新たな町を作る壮大な復興事業に取り組んでいる。
居住地は今回の津波にも浸水しない高さに集約し、低地は商業、水産加工業、漁業など産業用の土地にする。そして復興計画のトップランナーとして、JR石巻線の最後の不通区間浦宿駅-女川駅間(2.3㎞)を嵩上げした高台に移転し、3月新女川駅を開業した。
東北の復興と鉄道の復旧に人一倍関心を持つものとしては、これをこの目で確かめたい。JR仙石線の再開については別項扱いにする事にして、女川町、石巻市で見た事、聞いたことを報告する。

女川町 東北新幹線・古川→陸羽東線・小牛田→石巻線のルートで石巻に入った。仙台と石巻を結ぶ仙石線には、まだ代行バス運転区間が残り、鉄道は全線開通していない。
石巻からは牡蠣の養殖で有名な万石浦を右に眺めながら20分後、宿浦という小駅に着く。石巻線は4年かけて運転区間をここまで延伸してきた。残るは女川までの2.3㎞。JRと女川町は3月21日、嵩上げした高台の内陸部に新駅を設け、小牛田-女川の全線を開通させた。新女川駅は羽を広げたウミネコをイメージしたデザインで温泉と展望施設を備えている。

鉄道で到着した乗客はここから新たに作られる町へ、海に向かって下ることになる。金華山行きのフェリーが出る埠頭まで行ってみる。
辺り一帯では日本中の重機を残らず集めたのかと思わせるような大工事が展開されていた。不動産業者の宅地造成のイメージを遙かに越えて、戦後の臨海コンビナートの建設を思わせる巨大な工事である。
あの日、女川湾に押し寄せ激流と化した津波は高さ10mに及び、あらゆるものをのみ込んで町を破壊し尽くした。当時の空撮写真を見ると、町は高台の町立病院を残すだけで、戦後の焼け野原のような惨状を呈している。そこに山を切り開いて宅地を整備し、その土で低地を嵩上げする。

震災前から人口が減っている地域に本当にこれは必要な事業なのか。必要以上の復興事業ではないのか。今後人がどれだけ住み、仕事がどれだけ増えるのか。
広く住民参加の復興モデル女川においてすらそう思う。一部では自治体の身の丈に合わない橋や防潮堤が作られているとも聞く。しかし現に被災され、未だに仮設住宅の生活を余儀なくされている大勢の人を思うと、批判がましいことを言うのも憚られる。

石巻市 標高60mの桜の名所、市民の憩いの場日和山公園に登り、市内を眺望する。足下に北上川、石巻湾、市街地を望むことができる。震災前は海岸線から、この公園の足下まで住宅や商店がひしめいていたというが、今は何もない。わずかに再建中の水産加工場が見えるだけである。石巻市の当時の人口は16万人、この震災で死者3,000人、行方不明者800人という被害を出した。いま仮に震災を知らない人がここに立てば、巨大な埋め立て工事、宅地造成が行われていると思うだろう。ダンプが土煙を上げて縦横に走り回り、堤防、道路、住宅地が作られつつある。しかし身内に被災者を出した市民は、この公園の頂上から、市内を見下ろすには数年を要したという。津波に流されて「無」になった街を見る勇気はなかったのだ。公園には早朝から海に向かって手をあわせ、低頭する大勢の人たちがいた。

日和山からは白い蒸気を吐く日本製紙石巻工場が見える。日本製紙は日本の出版用紙の4割を生産し、石巻工場は敷地面積33万坪、従業員1,300人の主力工場である。津波は海沿いのこの工場に近隣の家屋18棟、自動車500台をのみ込んだまま、高さ4mで構内になだれ込み、工場の機能を完全に停止させた。
この絶望的な状況から奇跡の復興を果たした職人たちの闘いは『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』(佐々涼子)に詳しい。その工場の正門に行ってみた。工場見学を申し出ようとも考えたが、一人では無理だろうと諦める。

ついで石巻日日新聞社。輪転機が動かせない、印刷ができない、社員全員が被災者の中で地域住民に情報を伝えるにはどうするか。大勢の被災者が避難所で何が起きて、自分たちはどういう状況にあるのかを知りたがっている。
“いま伝えなければ、地域の新聞社の存在する意味はない”彼らは水没を免れたロール紙にフェルトペンで記事を書いて避難所に貼り出した。これがのちに有名になった「壁新聞」である。

かつて所属した企業OBペンクラブでは、同じ書く仲間として少額ではあったが、義援金を送らせてもらった。その小さな新聞社を訪ね、今もロビーに展示されているその日の新聞をしっかりと見た。(2015.6.22)

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