岩下守道氏死去

1月20日付けの訃報欄は83歳のその死を小さく伝えていた。大の野球好き、巨人狂いの家人ですら、その人の存在を記憶していない。巨人全盛時、川上哲治の控え一塁手で背番号15であった。
岩下は昭和24年、巨人の新人公募により投手として採用されたが、投手としては目が出なかった。しかし5年後の昭和29年には左投げ左打ちの一塁手として、二軍リーグのMVPに選ばれるまでに成長した。夢にまで見た一軍!
しかしその頃の巨人の一軍メンバーは次のようなものであった。
(中)与那嶺    これでは食い込む余地がない。
(二)千葉     まして一塁にいるのは打撃の神様・川上で
(右)南村     ある。昭和30年、川上はすでに35歳だった
(一)川上     が、若者岩下の登場に危機意識をもった。
(左)岩本     この年も首位打者と打点王の二冠を取って
(三)手塚     MVPに輝いた。
(遊)広岡     こうして岩下は試合後半の守備固めとたま
(捕)広田     に代打に出るだけのプレーヤーになった。
(投)―

しかし神様にも衰えは来る。かつての弾丸ライナーが影をひそめ、“テキサスの哲”と綽名されるほど打球は飛ばなくなった。昭和33年川上引退、いよいよ26歳岩下の正一塁手誕生とファンは思ったが、翌年早実から王貞治が入団してきた。

不運と言うか、悲劇と言うか、残酷と言うか、岩下にとっては巨大なライバル川上が去った瞬間、国鉄スワローズへのトレードが決まった。16番(川上)の後の一塁手は15番(岩下)と思っていたファンは、16−15=1(王)と言ったそうだ。
しかし岩下は常時出場の機会さえあれば一流のプレーヤーであった。昭和34年、2番左翼手として120安打、2割8分をたたき出し、打撃ベストテンの7位に入った。翌年も6番打者として111試合に出場している。彼はプロとして本物であることを証明した。
高校から大学の前半、試合開始前の後楽園球場でフリーバッテイングと守備練習をする岩下選手を何度も見た事がある。
こうして、球場で、舞台で、スクリーンで見た先輩、同輩たちが次々と旅立って逝く。(2015.2.25)

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中