奥能登プラス4_十日町市博物館と小坂遺跡

十日町市博物館小坂遺跡
旧石器発掘捏造事件の主役藤村新一と、考古学界の非科学的体質に言及した『石の虚塔(上原善広著)』を読んだ。巻末の参考文献一覧に相沢忠洋氏の『岩宿の発見』をはじめ数多の論文、報告書が紹介される中に、『岡本勇 その人の学問』という追悼文集のあることを発見した。
へえー、この人こんな学績のある人だったのかと当時を思い返す。半世紀以上も前のことであるが、岡本さんは我々大学生の兄貴みたいな存在だった。酒癖が悪くて有名な中川茂夫教授の下で、コツコツ何かやっていた印象がある。
『石の虚塔』を読む限り、中川さんはあまり登場せず、岡本さんの名が再三出てくるから、業績としては彼が上だったのだろうと推測する。そんな先生がたの指導の下で、1959年(昭和34年)8月、十日町市教育委員会の主催で発掘調査が実施された。
趣味で入った大学のサークル活動は、「考古学」というより「土方作業」であったが、長期間の合宿生活は仲間を作り、酒を覚え、その後の人生に限りなく好影響を与えてくれた。
そしてのちに「小坂遺跡」と名付けられた55年前の発掘現場はいまどうなっているのだろうか。予てから気になり出かけてみたいと考えていた。
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JR十日町駅からほど近い十日町市博物館を訪ねる。文化財課主任の肩書の学芸員阿部敬氏が出土品の並ぶ館内を案内してくれる。国宝笹山遺跡出土品として、火焔型土器がドーンと陳列される脇に、申し訳けなさそうに我が小坂遺跡の出土品が数点並べられていた。
たしかあの時はリンゴ箱で25箱くらいを夏休みの校内に運び込み、連日水洗いと整理、復元に明け暮れたことを思い出す。
教育委員会が発行した文化財調査報告書「小坂遺跡」の数ページをコピーしてもらう。
これによると「中川が担当者になり、岡本および加藤が立教大学生を指導して発掘調査を実施した。(中略)発掘に、あとの長い間の遺物整理に協力された立教大学史学研究会の学生諸君に対して深甚の謝意を表する。」とあり、発掘参加者名が記載されている。一作業員に過ぎなかったとはいえ、自分の名前を学術報告書の中に発見することは嬉しいことだ。早逝した廿楽清君の名前も見える。

次いで報告書の地図を頼りに発掘現場を探しに出かける。
博物館員は鳩首会議を開いてくれたが、地図上に現場を特定できなかった。駅前で客待ち中の年輩のタクシー運転手に地図を示し、ここへ連れて行ってくれと頼む。運転手はあまり自信無さそうであったが、行ってみましょう、途中に公民館もあるから分かるかもしれないと車を発進させる。
信濃川を渡り、丘陵地を上り、ここら辺だがなという地点に達する。農作業中のお年寄りに尋ねてみる。“むかしこの辺りで学生がたくさん来て、発掘をやった記憶はありませんか”“ああそれならこの上の畑だ”。
意外にも簡単に55年前の現場が分かった。信濃川の河岸段丘の上260mと資料にあるが、背景の杉林に見覚えあるようにも思えるが定かでない。一帯は水田、畑になっていて、発掘現場の痕跡は留めない。
しかし長期間、宿舎に使わせてもらった鐙島小学校の廃校を見つけ、ここの体育館で寝起きし、地元婦人会の人たちに食事の面倒を見てもらったことを思いだす。作業終了の日、BC3世紀頃の集落址と炉を囲んで地元青年団の人たちと茶碗酒を酌み交わしたことが鮮やかに甦って来た。あのころの青年団も多分80歳台、さっきのお年寄りもその時のひとりであったかもしれない。

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