朝霞第六小学校の子どもたちは米軍基地をどう感じていたか

tanizawa
谷澤輝子さん 元朝霞第六小学校教諭 1943年 昭和18年生まれ
聞き取り日2013年 平成25年10月30日

学校と野戦病院
包帯をぐるぐる巻いた負傷兵が散歩がてら学校を眺めていることが多かった。子どもたちには金網に近づくなと言い聞かせていたが、近づく子も多かった。一年目は静かな環境だったが、翌年から負傷兵を搬送するヘリコプターが学校の真上を低空で飛来。一時限の間に何度も往復することがあった。ヘリコプターの音だけでなく、基地内の芝刈機の音、道路修理の音、車の往来の音など、様々な音に悩まされた。基地に隣接していたことで六小の子は様々な問題に悩まされていた。
子どもたちの作文から
作文に、米軍基地のことを書く生徒が多くいた。ヘリコプターの騒音と負傷兵が問題になっていたときだった。以下生徒の作文を紹介する。
●「ミイラのように、ほうたいをまいた人がいるので気持ちがわるい。米軍は早く戦争をやめて、ここから出ていってもらいたい」
●「すこし冷たい言い方かも知れませんが、キャンプにいる外国人は、日本からすぐに出ていってもらいたいと思います。それから、おかしいと思うのですが、なんで日本の土地なのに、日本人の私たちがあそこのキャンプにはいると、どうして法律でばっせられるのでしょうか。」
●「毎日毎日、休むひまなく校舎の上を、あのうるさい外国のヘリコプターが飛んで行きます。」
●「もしキャンプがなかったら、とても広い土地ができると思います。そこを公園とか遊び場にしたりしていろいろに使えると思います。そしてキャンプをなくせば朝霞市全体が変わってもっとよい町になると思います。

一方でこんな意見を書く子もいました。
●「うちの母がいっていた。キャンプがあるために、もうかる商売もあるということです。キャンプは、ないほうがいいけれど、外人はいてもいいです」
朝霞第六小学校の子どもたちは米軍基地をどう感じていたか

負傷兵の対応に追われる看護師(昭和42~50年頃)
負傷兵の対応に追われる看護師(昭和42~50年頃)
車いすで考え込む負傷兵(昭和42~50年頃)
車いすで考え込む負傷兵(昭和42~50年頃)

写真提供者 大貫敏男さん

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