お国のためにと、大人に交じって黙々と働いた13才

takano
高野昇治さん 勤労動員 (当時) 1931年 昭和6年生まれ

聞き取り日2013年 平成25年12月24日

授業がなくなって勤労奉仕
12才で朝霞に疎開し、朝霞第二国民学校高等科に入りました。昭和19年9月から学徒勤労動員で学校の授業は無くなり、全員が被服廠(ひふくしょう)で働きました。男子は軽作業、女子はミシン、裁縫、布の裁断などの仕事です。私は営繕班で、芝刈り、枝切り、道の補修、防空壕の補修など仕事の受け持ちました。戦闘帽、地下足袋、巻脚絆という出で立ちで、朝8時から15時まで、お国のためにと、大人に交じって黙々と働きました。先生は毎日見まわりに来てくれ、空襲警報が発令されるとすぐに帰るようにいわれました。唯一の楽しみは、食堂でいただく昼食の白飯ですが、盛りが少なかったのがちと残念、その代わり労務加配米が付きました(注)。当時は食料事情がひどくて、家に帰っても畑仕事を手伝わされ、そっちの方が辛いくらいでした。他に、朝霞第一、志木の高等科生徒がいました。給与は一日一円と言われましたが、もらった記憶はありません。
(注)労務加配米…労務者はその軽重に従い主食配給の基準量が割り増しされた。
被服廠はもぬけの殻
昭和20年、お盆休み明けの8月17日に被服廠に出勤すると、中はもぬけの殻でした。営繕班の詰所にも誰もいません。それどころか、めぼしいものは皆持ち出されていて、何も残っていない状態でした。こうして、何の知らせも挨拶もないまま、学徒動員勤務は突如終りを迎えたのです。
国立埼玉病院戦後、和光の国立埼玉病院の官舎に引っ越しました。官舎といっても父が“改造”した家です。病院の他、兵舎、洗濯場、給水塔、噴水がありました。戦中は隣接する予科士官学校の専用病院ですが、負傷した米兵が運ばれてきたこともあったそうです。その土地の元地主によると、ある日陸軍が空中写真を持ってきて、ここからこの範囲を接収する、と一方的に取り上げたそうです。戦後、行政に土地を返すよう嘆願していました。

昭和19年夏〜秋頃 被服廠の詳細な空中写真

昭和19年夏〜秋頃 被服廠の詳細な空中写真

出典 秋元書房「士官学校写真集」

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