朝霞第一中学校とベトナム戦争

hosaka
保坂和雄さん 朝霞第一中学校元教諭 1934年 昭和9年生まれ
聞き取り日2013年 平成25年12月18日

当時の朝霞第一中学校と金網の向こう
昭和40年、1300人のマンモス校の朝霞第中学校に赴任。校舎は、古くはなっていたが、近代的で水洗便所だったことに驚いた。米軍は教育に関心が高く、朝霞中学建設時には米軍のブルト―ザーで地ならしをし、開校時には軍楽隊が演奏している。一年生12クラスは定時制朝霞高校の分校の旧校舎を使用。校舎は今の市役所の東にあった。この校舎は昭和42年第六小学校になった。昭和43年、テト攻勢で北の解放軍が南を攻撃、ベトナム戦争が開始された。アメリカが介入し、それに伴って朝霞米軍基地に野戦病院が出来た。ベトナムからの負傷兵を乗せたヘリコプターがひっきりなしに一中の校舎をかすめて飛来し、現在の朝霞西高校辺りへ着陸した。騒音は授業にならないほどすさまじかった。ヘリコプターのコースを変えるよう嘆願書を一中職員の阿部さんがキャンプの司令官に送った。間もなく、コースが学校の南側に変更され騒音は軽減したが、今度は緑ケ丘住宅の上空を飛ぶようになった。まさに基地公害である。軽傷者は白衣のまま基地内を散歩に出歩く。金網越しに「Good Morning」と挨拶してくる。たまに会話してみると、中には帰ったら学生に戻るんだと言う兵士もいた。荒々しい兵士の印象はなかった。
生徒に伝えたかったこと
生徒はいろいろな質問をしてきた。基地は戦場とつながっていることを教えた。数時間前に戦争していた兵士が朝霞基地に運ばれ、基地とは戦争に強く関わっている。「平和」がいかに大切で価値のある人類道徳であるかをしっかりと胸に刻んで欲しいとも伝えた。また、新聞をよく読むように勧めた。
基地返還運動
返還運動の背景の一つに教育の問題があった。高校の進学率が上り、競争率が高くなったが高校の絶対数が足りなかった。土地はどうするのか。米軍基地返還運動で高校増設も大きな目標になった。

負傷兵を運ぶ米軍ヘリコプター UH-1 Iroquois
負傷兵を運ぶ米軍ヘリコプター UH-1 Iroquois

写真提供者 大貫敏男さん

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