終戦直後 1945年~1949年

日中戦争が激化し、陸軍予科士官学校が拡大移転。川越街道と東上線からの引き込み線により交通の便が良いので、被服廠も建設される。
ゴルフ場の街から軍都に。付近の町工場とも協力し、軍需都市として発展していく。

asaka 朝霞市の情勢
toujo 東上線
n ノースキャンプ 現在の川越街道より北側、朝霞市役所手前までの敷地
s サウスキャンプ 川越街道より南側、現在朝霞自衛隊駐屯地
man まちと暮らし

1945年 昭和20年
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4月21日:陸軍被服本廠朝霞出張所が、東京陸軍被服支廠に昇格
8月末:米軍先遺隊が朝霞視察
9月8日:米陸軍第8軍団第1騎兵師団が、旧陸軍予科士官学校及び、旧東京陸軍被服支廠跡に設置(キャンプ・ドレイク誕生)
9月19日:米第43師団の先遣隊約100人が、午前11時元陸軍予科士官学校に進駐。
9月20日:米第43師団の一部6千人、が陸軍被服廠跡に進駐
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4月7日:B-29爆弾数発が予科士官学校に着弾し、12名が死亡。朝霞で唯一の空襲による死亡例。
(爆撃目標から外されていたが、南西方向に存在した中島飛行機武蔵野工場を狙ったものが誤爆したと考えられている。
終戦直後には予科士官学校に「終戦業務処理委員会」が置かれ、被服廠の軍需物資処理を行なった。
9月8日:米陸軍第8軍団第1騎兵師団が、旧陸軍予科士官学校及び、旧東京陸軍被服支廠跡に設置(キャンプ・ドレイク誕生)
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8月24日:戦争続行を主張する将校が、陸軍予科士官学校学生50人を利用して川口鳩ヶ谷放送を占拠。その日のうちに鎮圧される
12月:年末にかけて朝霞に、「夜の女」が約20人現れる
12月:朝霞進駐軍労務協力会(小佐見組)

1946年 昭和21年
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2月:東武東上線、池袋~朝霞間の連合軍専用車の運転を開始。引込み線利用による
2月1日:(昭和26年2月末まで運転)
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10月21日浦和警察署朝霞警部出張署設置

1947年 昭和22年
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1月18日:朝霞進駐軍要員労働組合結成(組合員300名)
この頃から、南栄通りで、進駐軍相手のクリーニング業、理容店、洋服屋、飲食業が増加する
4月1日:朝霞中学校、内間木中学校開校
6月:不良化防止新婦人運動(緑ヶ丘地区)
9月13日:朝霞警察署設置・設営(昭和23年3月7日に朝霞町警察署となる)
浦和警察署管内であったが、治安悪化により、治安対策のため朝霞警察署が建設されている。

1948年 昭和23年
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4月1日:志紀町が分離、志木町、宗岡村、水谷村、内間木村になる。
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4月:朝霞渉外労務管理事務所設置
10月:朝霞町教育委員会公選
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12月25日:サウスキャンプの根津地区に朝霞中学校と川越高校定時制併設。旧陸軍予科士官学校の校舎払い下げを受けて再建したもの

1949年 昭和24年
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7月10日:根津パークの一部、2.13ヘクタールが大蔵省から払い下げ。

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