旧日本軍時代 1941年~1945年

日中戦争が激化し、陸軍予科士官学校が拡大移転。川越街道と東上線からの引き込み線により交通の便が良いので、被服廠も建設される。
ゴルフ場の街から軍都に。付近の町工場とも協力し、軍需都市として発展していく。

asaka 朝霞市の情勢
toujo 東上線
n ノースキャンプ 現在の川越街道より北側、朝霞市役所手前までの敷地
s サウスキャンプ 川越街道より南側、現在朝霞自衛隊駐屯地
man まちと暮らし

1941年 昭和16年
toujo
この頃までに、被服廠朝霞分廠に引込線が作られる
n
5月赤羽にある陸軍被服廠本廠の分廠ができる
5月 この頃陸軍被服本廠朝霞分廠が正式操業
朝霞分廠は朝霞倉庫と朝霞作業所の2つからなり、敷地の東側は倉庫地区、西側は作業所
1)東武東上本線からの引き込み線敷設が可能なため。
2)幹線道路の川越街道に面しているため。
3)軍需用品に関連する町工場が現在の和光朝霞地域に多くあったため。
s
10月31日:陸軍予科士官学校開校(東京の市ヶ谷から移転)
陸軍幼年学校卒業者、あるいは中学校出身者などを生徒として、陸軍士官学校へ入校する士官候補生となるための教育(および現役下士官、准士官の陸軍少尉候補者を学生として兵科現役将校となる教育)を行う学校である。陸軍予科士官学校も生徒教育、学生教育ともに兵科現役将校養成が目的。
予科士官学校に在校した生徒は、満16歳から19歳までの採用試験合格者や同じく試験に合格した下士官など。
1941年から終戦時まで1万5000名もの生徒が学んでいた。また、中国、タイ、モンゴル、フィリピン、インドなどの留学生なども入校している。
甲種幹部候補生の教育機関としては別に陸軍予備士官学校が置かれていた。
「予士」の略称から計画は「ヨシ工事」と名付けられ、竹中工務店が施工、また700日で完成させなければならない突貫工事であった。その他、整地、基礎工事段階での困難な重労働は徴用された朝鮮人労務者200人が移転までの2年間担当していた。
man
大梵鐘は根津家に引き取られ、昭和18年金属供出される。大仏原型は引き倒され、幻の朝香大仏となる。大燈籠は現在多磨霊園にあるものと伝えられる。
食糧生産に携わっていた男性が兵士として戦場に行ってしまったため食糧不足がおき、サツマイモやカボチャで飢えをしのいだ。

1943年 昭和18年
s
12月9日:昭和天皇が陸軍予科士官学校を訪れ「振武台」と名づける。

1944年 昭和19年
n
被服廠は、当初は敷地いっぱいに整然と建物が並んでいたが、建物疎開のため間引きされる
asaka
2月11日:志木町・宗岡町・水谷村・内間木村が合併し「志紀町」が発足した。紀元節の日に成立したため「志木」を「志紀」にしたとされる
内間木村の荒川東岸(重瀬地区)は、北足立郡美笹村(現在の戸田市)に編入した

1945年 昭和20年 8月15日アジア・太平洋戦争終結

広告